誰のための支援なのか
1月21日。リオナは5回目の誕生日を迎えることができました。
(保育所に行った日でもあり、疲れて爆睡)
本当であれば「おめでとう」を言ってもらえるのは6回目のはず。だけど、生まれて「おめでとう!」という言葉は残念ながら多くは聞くことができなかった日でもある。
彼女の生きてきた5年間は、私が生きてきた30数年は何だったのだろうかと思うぐらい、命を削りながら、本来の人間らしさを教えてくれている。
常に社会と闘い続けている命ではあるが、サポートしてくれる方たちのおかげで隔離されることなく、子どもらしい生活をすることができている。
退院翌日から在宅支援をしている訪問看護は家族の負担を軽減してくれる。親子としての関わりを不安に思っていた時に、まぁるい抱っことスリングを教えてくれた保健所の保健師は行政のことを調べてくれる。リオナならこんなやり方で、こんなことができるのではないか?と提案してくれる訪問のリハビリの先生たち。就学まで療育園だけに行くのではなくて、保育所や幼稚園に行くこともできるよ、と教えてくれた障害児を育てているお母さんたち。リオナに関わる大人たちの情報量のおかげで今の生活が成り立っている。もちろん、資格があっても目の前の子どもに対して何も与えられない残念な「専門職」たちがいることも事実である。そんな大人たちの中で共通する意識の中には「リオナは重度で何もできない、わかっていない。」と判断していることが多い。
身体的にも知的面にも重度の障害のあるリオナは重症心身障害児と呼ばれ、そこに医療的ケアもあるのだから、健康な人と同じようにできないことは多い。できないからと言って本人に気持ちや考えがないわけではない。意思の表出が難しく、「言葉」を発せれなくても、生きている限り人には意思がある。
母子で通った療育園では常に受け身の保育だった。周りの大人たちが勝手なアフレコをして、リオナのことを代弁していた。アフレコをすることが悪いことではないが、本当に本人の代弁をできている大人はどれぐらいいるだろうか。最悪なのは、リオナのことを知らないのに、経験だけで自信を持ち、勝手にリオナのことを判断して代弁する。親への気づきを与えることはいいと思うが、我が子を他人が肯定する姿に違和感を抱いた。
言葉を発することが難しいリオナに、健康な人と同じ手段でコミュニケーションを取らせることや、がんばって健康な人と同じように言葉を発し、伝えることを強要することを当たり前にしすぎてはいないだろうか。
昨年見た劇団態変の箱庭弁当の舞台。身体障害者が言葉を使わずに舞台で表現をしていた。歩ける人は歩く。寝返りで移動できる人は寝返りしながら移動する。這って進むことができる人は這って移動する。誰1人ツールを使って身体を使っていなかったのだ。これを見た私は、コミュニケーションとはこちらの受け取り方だと学んだ。そして、現代人がいかに「こうでなければいけない」という中で生きているかというのを感じた。
食事の仕方1つにしても、お箸やフォークを使って食べるのが当たり前。座って正しい姿勢で食べるのが当たり前。そんな当たり前を強要することで、障害者は食べるためにお箸やフォークを使うことを練習し、座る練習をする。けれど、その人にとっては寝転びながら食べる方が食べやすい姿勢かもしれない。お箸を持つことよりも直接手で掴んで食べる方が食べやすいかもしれない。正しい姿勢で、お箸やフォークを使って食べなければ困るのは誰なのか。本人なのか、周りなのか。誰も困らないのだ。ただ周りがそのような食べ方を許せないのだ。こうでなければいけないことができない人を、周りは受け入れるのではなく、許されるようにどうにかはめ込もうとするのだ。障害や病気があってもシンプルに生きられるはずなのに、できる人間たちが複雑に、そして難しくしているのである。その人のできるやり方や近道があるのに、当事者に一番近い支援者ですら与えることをせず、当事者にとことんがんばらせようとする。
いま一度ちゃんと向き合ってほしい。今、目の前にいる当事者に必要なもの、人、環境、それは本当に本人の生きやすさに繋がっているのかということ。それは支援者たちの押し付けや洗脳でそうさせてはいないかということを。言葉でなくても伝えているものが必ずある。
次回はコミュニケーションについて掘り下げていきます。
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