文豪の香り高きセクハラ全開。『蜜のあはれ』室生犀星
女の読者は、女の主人公に厳しい。
淑女な読者たちは、表向きは共感しつつも、あか抜けない野暮が男に見初められれば「冴えない女なのに身分不相応な」と腹の底でせせら笑い、気の強い女が不幸に陥れば「ほうら、それみたことか」とほくそ笑む。
しかし、まれに女たちがひれ伏さざるをえない存在がいる。
室生犀星の中編『蜜のあはれ』の赤子はまさにそれだ。
老作家である「おじさま」の飼っている金魚「赤子」は、ある時は人間に姿を変え人間の街に繰り出し、ある時は金魚の姿のまま老作家とともに布団をわかちあう。人間なのか金魚なのか、視覚的イメージはあいまいなまま2人の会話だけで物語はすすんでいく。水の中と布団の中を、ひらひらとした赤い尾ひれは自由に行き来していく。
読んだ感想は、エロい。とにかくエロい。
「室生犀星、アンタ高校の教科書に載るような作家だろ…!」と偉大な詩人にツッコミたくなるほどセクハラ全開である。
「人間では一等お臀というものが美しいんだよ、お臀に夕栄えがあたってそれがだんだんに消えてゆく景色なんて、とても世界じゅうをさがして見ても、そんな温和しい不滅の景色はないな、人はそのために人も殺すし自殺もするんだが、全くお臀のうえには、いつだって生き物は一疋もいないし、草一本だって生えていない穏かさだからね、僕の友達がね、あのお臀の上で首を縊りたいというやつがいたが、全く死場所ではああいうつるつるてんの、ゴクラクみたいな処はないね。」
お尻についてのご高説を金魚に垂れる老作家。しかし、相手は長い尾ひれのついたお尻を持つ金魚である。室生犀星は彼らの関係をあくまでも老人と金魚だと強調しながら、人間同士のエロティシズムより生々しいそれを体現している。
赤子は男の理想そのものだ。
「おじさまは私がいないと何もできないの」と老作家の講演会まで押し掛け女房顔。
そのくせ、悪びれず金をせびり、無邪気な顔で買い物を楽しむ。
布団の中では、尾ひれの触り方を老作家をあやすように諭す。
そこにはまるで、無防備と誘惑のあわいを楽しむ13、14歳の少女のようなコケットリーがある。世間体や自分の売値を気にする大人の女にはマネできない奔放さである。
人が好きになるということは愉しいことのなかでも、一等愉しいことでございます。人が人を好きになることほど、うれしいという言葉が突きとめられることがございません、好きという扉を何枚ひらいて行っても、それは好きでつくり上げられている、お家のようなものなんです
しっかし、こんな魅力的な少女を金魚と人間の間で行ったり来たりさせるだなんてラノベかよ。日本の萌えはここでもう完成してたのね。
ただ、ここで安易に『蜜のあはれ』を元祖ラノベだとお粗末な類似性探しをすることは避けたい。
だって、ラノベが異星人だ半妖だのといった人外と恋に落ち「わかりあえる」までの物語だとすれば、『密のあはれ』は圧倒的な「わかりあえなさ」の物語だからだ。
老作家も、金魚も、相見えないいきものの境界が横たわっている事をしっている。赤子が人間の形をとっても、セックスはできない。金魚だから。数年もすれば一緒にいられない。金魚だから。
その「わかりあえなさ」が垣間見えるのが、妊娠を望む赤子のその後の行動であり、淡々とすすむ寿命についての会話である。
この小説のエロティシズムの根幹は、この互いにわかり合えない、刹那的な存在であることを両者が承知している点に尽きる。
金魚を女に変えても同じだ。
男と女の間には、絶対に交差しない平行線が張り巡らされている。それを受け入れるか否か、声高に主張する必要はない。
恋も愛も、永遠を求めれば傲慢になる。
でも数年の命だと思えば、もっと軽やかになる。
世の女性は「25歳からの女を磨く方法」みたいなクソくだらない字の毒を読む暇があるのなら、『蜜のあはれ』を読んだ方がいい。
本に「上質な白いシャツを買いましょう」と言われた通りに買う女なんて浅はかすぎる。ああしなさい、こうしなさいと言われてその通りにする女は、きっと他の人間にも指図をする。
そうではなくて、この小説を読み、じっと自分でこの金魚の魅力を咀嚼してみるのだ。
一生ぴったりとは重なりあえない他者を飲み込み、明日が最後だと思って自分なりの死化粧をしながら生きるのだ。
まぁ、もしかしたら人間に理想の女なんていないから、室生犀星は金魚に語らせたのかもしれないけど。
人の金で食う焼き肉の味ってものを知りたいので何卒施しのほどよろしくお願いします!