現代音楽史 / 沼野雄司(前編)

この本は「現代音楽」と呼ばれる西洋クラシック音楽を主なルーツとして20世紀に入ってから制作された音楽の歴史を扱っている。現代音楽は、しばしば難解と言われていて、実際に大抵の人にとって聞いていて楽しいものでないと思う。例えば有名な作品のひとつで奏者が一切楽器を演奏しないジョンケージの4分33秒など、もはや音楽ではないと捉えられても不思議でない作品も多い。この本を読んで、聞いていて意味不明でつまらなかった現代音楽が突然面白さがわかる、美しく感じるようになるわけでもないけれど、諸々の現代音楽作品がどのような歴史的位置づけを持ち、携わった音楽家(特に作曲者)がどういった問題意識から作品の制作に向き合ってきたのかという疑問に対しては、幾分か理解できるようになる。

近現代の歴史を扱った本の常として、現代に近づくほど一貫したストーリーよりも事実の羅列の記述になっていく。この事は、様々な事象の整理がついておらず、定見もない以上は仕方がないけれど、読み物としては現在に近づく後半よりも、20世紀初頭を描く前半の方が現代音楽の発展の道筋に納得はしやすい。

最初にこの本が描く大まかなストーリーをwikipediaも参考にしつつまとめると、話は20世紀初頭、1908年の冬から始まる。

1.第一次世界大戦前後

19世紀から続くロマン派音楽に陰りが見え、新しい時代の音楽様式を求める若い作曲家が出現し始める。シェーンベルクを中心としたウィーン学派が調性を否定する無調音楽を探究し始め、ストラヴィンスキーは規則的・周期的な拍節・リズムを破壊するように実験的なリズムの探究を始めていた。

19世紀のヨーロッパでは国民国家の成立や工業化など社会の大きな変動に伴い絵画や音楽、芸術の変容が始まっていたが、1914年の第一次世界大戦を境に芸術を巡る社会情勢、そして芸術様式そのものが大きく変容していく。特筆すべき点は貴族ブルジョワ社会が、社会制度の変化に伴って影響力を喪失し、クラシック音楽の世界にとっては経済的インフラが崩壊したことで、これまで貴族(高度な音楽的教養を持っていると想定していい)を主要な観客として想定していた作品の受容環境が縮小して、新しい観客である大衆が現れたことだ。この時期の音楽家にとって、取りうる選択肢がいくつかあった。引き続きブルジョワの残党に向けて活動を続ける方法。大衆に向けて(しばしば軽薄な)音楽を作る方法。あるいは新しいジャンル映画音楽に活路を見出す方法。そしてそのどれでもなく音楽家が自身の望むままに創作を続ける方法。現代音楽に先鞭を付けたのは、好きなように創作を行う事を選んだ(先のシェーンベルクやストラヴィンスキーのような)一部の若い作曲家達だった。新しい時代を迎えつつある音楽の世界で、彼らは、音楽の在り方自体がラディカルに変わる必要があると考えた。

もっとも、この時期に既成の枠組みを越える作曲上の挑戦を行った作曲家は少数派だということには注意が必要だ。ほとんどの作曲家は、調性の、また周期的なリズムの枠組みの中で作品を発表している。決してこれらの動きが主流ではないが、音楽史上には大きな意味をもっている。

ここから、更に時代が進むと、新古典主義と呼ばれる作品群が現れるようになる。芸術を作家の個性、内面性の表現と考えたロマン主義を否定するように、過去の古典にインスピレーションを求めて、作品や様式の引用を現代風にリファインした作品が大きな潮流になっていく。新古典主義は、引用のパッチワークとアレンジという安直な新しさにも思えるが、二度の世界大戦の最中で強まるナショナリズムと相性が良かったこともあり、意外なほどにしぶとく音楽の世界で生き残っていく。

2.第二次世界大戦前後

イタリアのムッソリーニ政権、ドイツのヒトラー政権、ソ連のスターリン政権など、国家の全体主義的傾向やナショナリズムが勢力を拡大していく中で、音楽も国家に奉仕する役割をしばしば求められた。芸術家の役割は大衆と国家の発展に尽くす事とされ、芸術的選良のみを相手にするかのような前衛的な作風は、芸術のための芸術であり悪しき形式主義に堕しているとされ厳しい批判にさらされる。

この時期、戦前から続いていた新古典主義は、ナショナリズムとも結びつき、更に推進されることになる。前衛的な無調やリズムへの実験は、作曲者への社会的な圧力によって抑えられる中で、作曲家は全体主義と親和的な民族的要素を持つ新古典主義の枠組みの中で、自身の楽想を実現していくことになる。

本書の第三章では、ヨーロッパとアメリカ、日本それぞれで、作曲家を取り巻く状況が解説される。

この時期の(特にヨーロッパの)作曲家は、大まかに言って既存の音楽の枠組みを壊すような前衛的な作風を控え、作曲家が望む望まないに関わらず大衆にも理解しやすい聴き慣れた様式の作品を書くよう国家による圧力に晒されていた。

作者の自由な創意を蔑ろにするという点で、この時代は創作にとって苦しい時期だったという見方が強いが、一方で社会による抑圧と個人の自由な創意の妥協点を探る作業から、作曲者にとって最も息が長く、聴衆に好まれる作品が産まれるような事もあり、芸術作品にとって重大な問題に触れている時代でもある。

・ソ連

教育人民委員ルナチャルスキーと音楽部門主任ルリエーが文化政策を担当していた初期には、前衛的な芸術が奨励されていた。ルナチャルスキーは世界史上全く新しい国家ソ連には、全く新しい芸術が相応しいという考えを持っていて、前衛芸術を国家的な文化政策の対象として歓迎し、初期にはロシアアヴァンギャルドなどが花開いた。しかし、やがて政治的な情勢の変化から、前衛芸術に対する抑圧が強まっていき、ルナチャルスキーは人民委員を解任、ルリエーはパリへ亡命する。1932年4月に開催された全ソ作家大会において、社会主義リアリズムがソ連における芸術の理念として提唱される。芸術は勤労大衆と国家の発展に尽くし、前衛的な試みは芸術のための芸術として虚ろな形式主義であることが確認され、以後ソ連における芸術は保守的・伝統的な傾向を強めていく。

例としてショスタコーヴィチの遍歴はソ連における作曲家の在り方を象徴的に示している。19歳で「交響曲第1番」が世界的に高い評価を獲得して以来、常に注目を集めてきた彼は、その注目が災いして、作風に対する国家の圧力も高まっていく。時代の先端をいく高度な作曲技法も自在に用いる能力を持ちながら、社会主義リアリズムの理念にそぐわない難解な表現を用いることは批判を集める事になり、やがてショスタコーヴィチの作風は、国家権力に迎合的なものになっていく。一方で、彼の持つ高度な作曲能力は、国家からの要請を踏まえつつも、個人の創意を表現することを可能にした。

ショスタコーヴィチが、体制の意に恭順を示すために、あえて「分かりやすく」書いた交響曲第5番は、ショスタコーヴィチの交響曲で最も親しまれている作品となっている。一部の「わかる」人だけを相手としてきた現代音楽は、結果として聞き手を遠ざける結果となってしまっている。ショスタコーヴィチの遍歴を振り返ってみるとき、社会主義リアリズムは、一概に芸術家の創意を抑圧しただけの悪しき理念とも片付けられないのではないか、と著者は述べている。

・ドイツ

1933年首相に就任し、全権委任法を成立させたヒトラーは、ユダヤ人の公職からの追放を開始する。ユダヤ系の著名な音楽家は亡命して、国外へ逃れた。9月にはヨゼフゲッベルスにより帝国文化院が設立され、リヒャルトシュトラウスが音楽院の総裁に任命される。

やがてナチスは体制の意に馴染まない芸術を「退廃芸術」と名づけ排斥し、退廃芸術作品の作者は、表舞台から姿を消さざるを得なくなっていく。

退廃芸術の線引きは恣意的なところがあるが、概ね下記を一つ以上満たす。

・ユダヤ人による、あるいはユダヤ的題材による作品

・共産主義者による作品

・不道徳、堕落した、あるいは無調など用いた作品

退廃芸術認定された作曲家が表舞台から姿を消す一方で、ヒトラーのお気に入りとして有名なワーグナーは聴衆を陶酔させ高揚感を煽る作風と、反ユダヤ思想が模範的な作曲家として、ナチス時代の象徴的作家として扱われた。

また、政権と親密な関係を結び、ナチス時代のドイツで華々しく活躍した作曲家もいた。カール・オルフ、ヴェルナー・エック、ヘルベルト・ヴィント、フーゴー・ディストラー、などがこの本では名前を挙げられている。彼らの音楽の内容について著者は割合と好意的に言及している。

・イタリア・フランス

イタリアにおいては、ムッソリーニ率いるファシスト党が1922年より政党を担い、ヨーロッパの中でも早くに全体主義的な政治体制を成立させていたが、1938年の人種法制定まではユダヤ人を排斥する政策を取っていなかったことや、芸術に対する過剰な制限を行なっていなかったことで、ドイツに比べて音楽家は政権と緩やかな関係を築いていた。

フランスでは、1940年にナチスがパリに侵攻して占領するも、ナチス側の文化活動宣伝の目的から、オペラ座などの劇場は稼働しており、フランス人作曲家による作品も積極的に発表されていた。この時期のフランスでは、音響技師のピエールシェフェールが中心となって1940年に芸術協会「若きフランス」が設立されている。この教会はやがて反ナチのレジスタンス組織となっていく事に加えて、音楽史的には戦後にこの組織を前身とした音楽スタジオから、最初期の電子音楽様式ミュージックコンクレートが産まれてくる。

・アメリカ

1930年代のアメリカでは、世界大恐慌からの経済の建て直しのために、ニューディール政策の一環として芸術活動に対する支援プログラムが行われた。1935年に始まった「連邦音楽プロジェクト」によってアメリカの作曲家は比較的恵まれた状況で活動を行うことができた。また、ヨーロッパからシェーンベルクや、ストラヴィンスキーなど著名な作曲家の亡命が続き、亡命音楽家の活動が、(ケージがシェーンベルクに師事したように)アメリカの現代音楽に影響を及ぼしていく。

3.終戦後

1945年第二次世界大戦が終結。

戦中の国家による芸術文化の政治利用に対する反省から、第二次世界大戦以降の現代音楽の世界では政治的イデオロギーが絡まない自律した作品が指向されていく。ナチスが模範的作曲家としたワーグナー作品に典型的な、強烈な物語の力で忘我的な陶酔を作り出していくような作風は敬遠され、感情よりも理性を重んじた音楽を作ることが求められた。

1946年ドイツのヘッセン州で「ダルムシュタット夏季新音楽講習会」が開催される。この講習会はドイツのみならず、アメリカからの資金提供も行われているが、ここには、非共産圏における創作の自由を民主的に再構築する場という意味合いもあった。この講習会において、やがてシェーンベルクの12音技法が注目を集めるようになる。シェーンベルクは1920年代からこの技法を用いていたが、戦中はユダヤ系であった彼の作品はナチスによる退廃芸術認定により、表舞台から姿を消してしまう。戦後になり再び表舞台に戻ってきたシェーンベルクと、彼の弟子が形成するウィーン楽派では、戦前からスタートしていた無調音楽の探究が発展して12音技法に至っていた。特定のルールに基づいた数的操作により音楽を作り出す12音技法は、政治的なイデオロギーや情緒的な作為から切断された新しい音楽に相応しい作曲メソッドとみられた。

やがてこの流れは先鋭化されて、12の音のピッチのみならず、音の長さや強弱といった音楽のパラメータ全てを数的操作に基づいて作り出す音楽が現れる。このジャンルの音楽はセリー音楽と呼ばれる。

ヨーロッパでセリー音楽の探求が行われていた頃、アメリカではジョンケージを中心とした偶然性の音楽、不確定性の音楽のムーブメントが起こっていた。偶然性の音楽、不確定性の音楽は、ヨーロッパ的なコントロールされた音楽、個人のエゴの「表現」としての音楽に対する否定であり、セリー音楽による感情や物語性の排除以上に、極端な姿勢を持っている。楽譜によって指示される数字にラジオをチューニングして演奏する「ラジオ・ミュージック」や、図形が描かれたプラスチックシートを奏者が好きなように重ね合わせて一つの楽譜として解釈する「ヴァリエーションズII」など、ケージの作曲作品では、もはや演奏を聞いても作曲者自身にも自分の曲であることは判別することはできない。ケージの作品には、演奏によって現れる音楽が、美しいとか心地良いものであることを作曲家が保証する必要などないとでも言うような姿勢すら伺える。

ヨーロッパでは、12音技法とセリーによる数的操作による音楽、アメリカでは偶然性の音楽、大きく分けてこれら二つの戦後に発生した現代音楽の潮流はともに、作者の感情や意図、作為を離れて音楽を作ることに対する実験だったと考えることができる。こうした戦後の現代音楽の動きは、戦前戦中の音楽に対する政治利用に端を発して、そこから逃れる意図を持っていたと言えるが、ある意味でそれは新しい抑圧として機能した面があり、戦中からの切断を指向しない保守的な作風は、暗黙の批難にすらさらされていた。

また、前述のショスタコーヴィチにみられるように、社会主義リアリズムによる抑圧を反映した作品が、戦後も息長く親しまれる作品の創作に繋がる例もある。戦前の前衛音楽や戦後の自由な創作の数々が、大勢の聴衆を置き去りにしている面もあることを考えると、戦中の全体主義的な抑圧を導き出した素朴な聴衆の嗜好を単純に否定することも難しい。また、ナチス時代の一部作曲家のように、体制に恭順的作風を示した作家の中には、良質な作品を残しながらも、その思想的な側面から日の目を見なくなってしまった作家もいる。20世紀の音楽を考える上で、全体主義の中の音楽は重大な問題を残したままとなっている。

戦後の現代音楽の自由への嗜好はイデオロギーの一種で、全体主義や社会主義リアリズムが提起した問題は、その後に十分に議論されないまま棚上げにされているように思える。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?