夜中に病院を抜け出して海へ行く

 三階担当の夜勤が寺池だということが、夜七時の検温で判明した。寺池は見周りの際、カーテンを開けて患者の顔を確認しない。らしい。

 「それじゃあさ、十一時過ぎたら、ひとりずつトイレのすぐ横の階段を降りて、職員玄関を出たら大沢君の車に集合ね」

 夕食後のトランプがお開きになった際、念を押すように二瓶さんが言った。

 「車の鍵を持ってる大沢君が最初に部屋を出るんだよ。もし見つかっても、トイレどこでしたっけ、とか言ってごまかすんだよ」

 深夜の見廻りは消灯時、十一時、深夜二時、早朝四時、そして六時半の検温となる(らしい)。十一時にテレビの電源が落とされるのだが、それまで出発を待つのには理由があった。いつもはギリギリまでテレビを見ている人が多いのに、今日に限って十一時前に部屋が暗かったら怪しまれる。僕はいつもトランプが終わるとすぐに寝てしまうので、その時間まで起きていられるか怪しい。

 十一時半に病院を出て、目的地に着くのが遅くても一時。二時に向こうを出たとして、三時半には帰って来られる。病室に戻るタイミングは見廻りの時間さえ外せばばれない。らしい。

 「夜は病院もカギ閉めるでしょう。締め出されたらどうするんですか」

 「心配ない」

 東病棟の一番奥突き当りは、医療用具などを置いている倉庫らしいのだが、その倉庫の雨どいから屋根に登れば、二階の窓に手が届く。高山さんはその二階突き当りの二一一号室に入院している大学生に、窓の鍵を開けておくよう頼んでおいたと言う。

 消灯時間の九時半に一度睡魔が訪れ、十一時を過ぎてモリオに起こされるまでうとうとしていた。目をこすりながら財布と携帯電話だけ持ってベッドを出ると、各々の仕切りのカーテンが少しだけ開き、全員が息を呑んでこちらを見つめていた。二瓶老人が親指を立てて行けのサインを出す。

 忍び足で階段を降り、看護婦にすれ違わないよう祈りながら歩く廊下は、昼間よりかなり長く感じられた。東病棟出口の自動ドアが開くブーンという音が、静まり返った夜の病院に響いて、ナースステーションに聞こえたのではと不安になる(自動ドアは深夜零時に閉まります)。

 いや待てよ。そういえば職員玄関から出ろと言われていたっけ。いや、もう遅い。そもそも職員玄関がどこだか知らない。捕まったときは素直に「あの人たちに脅されて仕方なく」と謝るしかない。

 ナースステーションで説教される姿を想像しながらようやく車まで辿り着き、シートを倒して待っていると、まず二瓶さんが現れて迷わず助手席に乗り込んだ。それから五分おきに高山さん、浅田さん、モリオの順で出て来て、後部座席へ乗り込む。モリオと高山さんに挟まれた浅田さんは窮屈そうだったが、満面の笑顔だ。

 病院専用駐車場のすぐ横に一般の月極駐車場があるため、この時間に車の出入りがあっても不自然ではない。「何だかドキドキするね」という二瓶老人の声とともに、エンジンをかける。車内全員がパジャマだった。出発前に皆から徴収した高速代金は、浅田さんが持っていた。

 「浅田さん、夜の海で財布だけは落とさないで下さいね。帰れなくなるから」

 「任せなさい」

 深夜ともあって道は空いており、すれ違う車もほとんどない。修学旅行で夜中に起きているだけで嬉しい高校生のように、浅田さんはタクシー稼業の裏話を延々話した(ほとんど下ネタだ)。「今まで乗せた中で、迷惑だった客ベストテン、第二位」が終わる頃に、ようやく高速の入り口に辿り着いた。

 「俺もさあ、とっとと退院して、あと何年かは働かなくちゃいけないんだよ。それが入院して、収入がないからさ、孫に小遣いやるたびにヘソクリが減っていくよ」

 「外泊許可取って会社に行っても冷たい目で見られるしね。結核の人は勤務停止って就業規則で決まってますから、とか言って」

 追い越し斜線を青のスカイラインが走り去り、「負けるな、行け行け」と二瓶さんが叫ぶ。その言葉はなぜか、退院後の自分たちに向けられている気がした。

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