女房が綾小路きみまろにハマる
七月二十五日(月)福留
毎週日曜、見舞いに来ていた女房がなぜか昨日は来なかった。不審に思い自宅に電話を掛けてみると、「ああ、恵理子(長女)のところに行っていたのよ」と言う。
こっちは洗濯物がたまって下着の替えがなくなったり、歯磨き粉があと少しになったりしているのに、入院中の亭主を放っておいえ娘のところへ遊びに行っているとは何ごとか。怒りのあまり受話器を握る手が震えた。
「恵理子のところに行ってたって、昨日は日曜日だぞ」
「知ってるわよ。別に毎週顔を見に行かなくたっていいでしょう」
「洗濯物だってたまっているし、頼みたい物もあったんだ。こっちは入院してるのに、どうして気が利かないんだ」
「死にそうなほど具合が悪い訳じゃなし、洗濯くらい自分でやってくださいよ。どうせ薬飲んでテレビ見て寝てるだけでしょ」
「そういう問題じゃない。恵理子のところに行くなら、裕太(孫)も連れて見舞いに来ればいいだろう。それを自分だけのこのこ出かけて、恥ずかしくないのか」
「あんたのところに皆で行って、結核がうつったらどうするのよ。裕太だってまだ小さいのに。明日私が行きますから。足りないものはありますか」
「もういい」
頭にきたので今度は長女のところに電話を掛けた。もし母親がひとりで来ても、私が入院していることを知っているのだから「お父さんの所へ行ってあげて」と追い返すのが普通だろうが。それを何だ。どうせ一緒に買い物にでも行って、外食でもして来たのだろう。親をないがしろにするにもほどがある。
「もしもし、酒井ですが」
電話をすると亭主が出た。
「おお、俊彦君か。私だよ」
「ああ、お義父さん、どうもご無沙汰してます。お体の方はどうですか」
「何とかやっとるよ。ところで、昨日はうちのが伺ったようで、どうも世話になったね。君も休みの日に姑が来たら気が休まらんだろう」
これはもちろん嫌味のつもりだ。この男も、もう少し私に敬意を払う必要がある。
「えっ、お義母さんがいらしてたんですか。すみません、何にも知らなくて。じゃあ、恵理子と一緒に出かけたのかな」
「何だ、君も知らんのか」
「ええ。恵理子は朝早くからどこかへ行くって。確か、綾小路きみまろのライブを見に行くって。じゃあ、それにお義母さんも一緒に行かれたんですね」
「何だって」
「綾小路きみまろ、ご存知ありませんか。漫談とかやる、中高年に人気の」
「なら、二人してそのきみまろとかいう奴の漫談を聞きに行っていたということか。よし、よく分かった」
私は電話を切り憤然と病室へ戻った。今度妻が見舞いに来ても、怒鳴り帰してやる。亭主をほっといて娘と漫談を聞きに行くとはいい度胸ではないか。結婚生活四十六年、色々と我慢してきたこともあった。しかし今度だけは許せまい。病室で泣いて謝っても許してやらないつもりだ。
しかしその「きみまろ」とかいうのはそんなに人気があるのだろうか。気になったので同じ病室の若いのに聞いてみた。
「ああ、結構有名ですよ」
「そんなに面白いのか」
「聞いてみますか」
「榊君もファンなのか」
「ファンでもないんだけど。ちょっと待って下さいね」
「いや、わしはいい。そんなもん、聞きたくもない」
「聞かないんですか」
「誰が聞くか、そんなもん聞きたくもない」
「そうですか。まあ、福留さんは聞かない方がいいかも知れないですね」
「どういう意味だ」
「聞いたら気を悪くするかもしれません。毒舌漫談っていうか、中高年女性に人気なだけあって、亭主の悪口みたいなのも出てきますから」
「じゃあうちのは、亭主の悪口を聞きに行くために、見舞いに来なかったのか」
「そればかりじゃないですよ」
「やっぱりどんなもんか聞いてやる」
「いいですけど、聞き終わって僕に怒らないでくださいよ」
「分かったから貸せ。いいから、ほら」
聞きながら、不覚にも笑ってしまった。もう一度はじめから聞いて、ひと通り笑ってから床についた。
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