鏡を見て泣き出しそうになる
妻を見送り、部屋に戻ると、無人の病室でカーテンが風に揺れていた。廊下から「風呂だよ」と声がする。向かいの病室の人がバスタオル片手に部屋に戻って行った。礼を言い、着替えを持つと早足で風呂場へ向かう。
脱衣場に入ると、風呂から出たばかりの上気した顔で二瓶さんが「来た来た」と笑った。浅田さんも体を拭き終えて服を着る所だった。「さっきの、奥さん」という浅田さんの言葉に「ええ」と答え、服を脱ぐ。僕と入れ違いに高山さんが湯気を立てながら出てきて、すれ違いざまににやりとと笑う。風呂に入るれるのは皆嬉しい。背中の牡丹も水を浴びて嬉しそうだ。
入浴は部屋の番号順で回ってくるため、必然的にこの三一五号室が最後になる。前回は運よくひとり占めだったが、今日は浴室内にまだモリオがいた。壁際に三つずつ、計六個ついた蛇口の、ひとつ空けてモリオの隣に座る。難しい顔をしながらヒゲを剃っていたモリオが「石鹸借りてもいいですか」と鏡から目を離さずに聞いた。
「一回百円」とモリオの手に届く場所に置くと、「僕、体は最後に洗う派です」と石鹸を取る。
「俺が入って来なかったらどうしたの。石鹸なくて」
「そのときはシャンプーで洗います」
モリオの前にはテレビのコマーシャルで見たことのあるシャンプー、リンス、コンディショナーのボトルが並んでいた。きっと自分は一生使うことのない類だ。
「お見舞いに来てたの、奥さんですか」
「そうだよ」
「かわいいですね」
会社を辞めるつもりだということは話していたが、見舞いに来た妻はそのことについて何も言わなかった。頭を流すため目を閉じたモリオに近づき、シャワーの蛇口をこっそり「冷水」の方にひねる。自分は水が掛らないようによけながら湯船に入ると、少ししてモリオが悲鳴を上げた。
浴槽のお湯は溢れずに肩の辺りでたゆたう。大人が五人入って手を伸ばせる位の大きさはあるだろうか。高校時代から寮生活のおかげで、湯船に垢が浮いているのも気にならない。
窓から射す日の光がまぶしく、目を細める。遠征などで宿泊先に露天風呂があると、前の晩がどんなに遅くても必ず朝風呂に入った。朝の匂いを嗅ぎながら湯に浸かることは、大変な贅沢に感じられた。病院の入浴は午前中なので、入院中はその感覚をずっと味わえる。温もるかと思っていたモリオが、「お先に」と出て行こうとしたので、「お前さ」と呼び止める。
「何すか」
「意外とちっちゃいね」
「そうですかね」一度見降ろす。「普通ですけどね」
ガラガラと戸の音を立てモリオが脱衣所に消える。ガラス戸から影が消えたのを確認し、湯船から上がると鏡の前に立った。見慣れた自分の体、肩やお腹の筋肉のつき方。
どれ位で、モリオのようなゆるみ具合になるのだろう。楽しみでもあるような、悲しくもあるような、泣き出しそうな男の顔が鏡に映っていた。
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