悪夢はおわらない
三ヵ月後 砂原
退院して二ヶ月が過ぎた。二ヶ月も過ぎたというのに僕はまだ二週間に一度、定期検診のためこの病院に来て狸医師(担当医の本多)の顔を拝まされている。結核の薬もまだ飲まされているため、おしっこもオレンジ色のままだ。
薬をもらってすぐ帰れるならいいが、レントゲンや血液検査の結果待ちで、二時間は病院にいるはめになる。売店で買った雑誌を三回も読めば、誰だっていい加減飽きる。僕だって飽きる。それでも待たされる。
永遠とも思える時間を待たされた挙句、やっと呼ばれたと思ったら診察はものの五分で、胸に聴診器を当てて本多が「ふむふむ」とか言って終わりだ。一度「これでもか」というほど大きなあくびをしたあと、周りで同じように診察を待っている患者たちを見渡した。そういえば同室に入院していた人たちとも、退院以来、一度も会っていない。
「砂原さん、お待たせしました」
看護師に呼ばれ僕がイスから立ち上がると、隣でうとうとしていた老人がはっと目を覚まし、両手で目をこすりながら僕の顔を見た。老人は何やら言いたそうな顔で(教えてやろうかと思ったけど、やっぱり教えてやらない)一度ふっと笑うと、また眠りの世界へ戻っていった。
規則正しい寝息を立て始めた老人を見ながら、僕はこの老人を前にも見たことがあると思った。どこで見たのか必死に思い出そうとしていると、先ほどより大きな声で、診察室の向こうから「砂原さん」と呼ばれた。
薄汚れたカーテンを開けると、いつものように本多が醜く太った体をイスにちょこんと乗せ机に向かっていた。いつもなら僕が入っていくとその陰険そうな眼差しをちらりと向けるのに、今日はまるで本物の医者のような顔で、カルテに何か書きこんでいる。
あれは僕のカルテだろうか。上着とバッグをベッドに置いて本多の向かいに腰掛けると、僕は本多が口を開くのを待った。
眉間にしわを寄せながらカルテと睨み合っていた本多は、ようやく僕に気づいたような顔をしてこちらに向き直った。僕が軽く頭を下げると、本多は威厳たっぷりに「うむ」と呟いた。
「どうです、調子は」
「いたって良好です」
「退院してから血痰は出たことは」
「ありません」
「何か変わったところは」
「ありません」
「そうか」
いつになく深刻そうな顔で言葉を詰まらせる本多に、僕はある種の不信感を覚えた。いや、正確に言えば本多に不信感を覚えたのは奴が担当医になった瞬間からだったが、今回は少し様子が違う。いつになくそわそわしているのだ。口元に手を当て、時おりこちらを盗み見ている。
「何ですか?」
「ああ、残念だが砂原君、再入院だ」
本多の言葉を聞いて僕は混乱した。何を言っているのだこのヤブ医者は。この間退院したばかりじゃないか。具合の悪いところはないし、薬だってちゃんと飲んでいる。なのになぜまた入院なのだ。
「再入院だから、また着替えとかを持ってきて」
「嫌ですよ。三ヶ月もここにいて、この間やっと退院になったのに」
「あのね、再入院って言われて喜ぶ人はいないの。気持ちはわかるけどね、嫌だとかそういう問題じゃないから。君は今非常に危険なの。ちゃんと治療しないと」
しおらしい声を出しながら脂ぎった顔を近づけてくる本多に殺意を覚える。健康な人間を入院させて、金儲けのことしか考えていないのか。僕は勢いよくイスから立ち上がった。反動で座っていたイスが後ろに倒れる。
「ふざけんな、頼まれたって入院するかこんなところ。何だよ、非常に危険な状態って。危険なら余計にこんなところに入院できるか」
「何てこと言うんだ! そこまで言うならこれを見なさい」
本多はそう言うと一枚の写真をライトにかざした。ぱっと見ただけでは、体のどの部分を写したものなのかは分からない。全体的に丸みを帯びてはいるが、いつも見る肺の写真とは違うようだ。
「ここをよく見なさい。これを見てもまだ君は再入院を拒否するか」
そう言って本多は写真の中央、球形のものをちょうど縦に二分ように伸びる線の付け根あたりを、銀色の細い棒で迷いなく指した。よくニュースで気象予報士が、天気図を指しながら明日は雨だと説明する際に使用するあの棒だ。本多の指したところを見ると、線の付け根部分に、豆のような小さなものがあった。できもののように見えるが、これが何だというのか。
「これが何なんですか」
「まだ分からないのか。これは君のお尻にできた、悪性の腫瘍だ。ほら、ここね」
「お尻の腫瘍って、ガンっていうことですか」
「幸いなことにそこまではいかない。説明するのが難しいが、しいて言うなら、イボ痔だ。しかしただのイボ痔だと思って甘く見てはいけない。このまま放っておくと大変なことになるからね」
「ちょっと待って。こんなお尻の写真いつ撮ったんですか」
「先週の検査のときだ。実は君と同じ時期に、同じ部屋に入院していた患者さんで、同じようにお尻に腫瘍ができた人がいた。これは新種のウイルス型のイボ痔だから、他にも感染者がいないかどうか早急に調べる必要があった。悪いとは思ったが先週来たときに内緒で検査した。そしてその結果、不幸にも君は感染していた」
「なんだよ新種のイボ痔って」
「非常に強力な感染力がある。同じ部屋の空気を吸っていただけでは感染することはない。ただ、同じ風呂に入ったりすると……」
「嫌だ。絶対に嫌だ! 誰がイボ痔なんかで入院するか。それにここは結核の病院なんだからイボ痔は専門じゃないだろう。入院するならちゃんと肛門科があるところに行く」
「まだそんなことを言うのか。何て聞き分けのない男だ。おい、もういいからこの患者を病室に連れて行きなさい」
顔を真っ赤にしてそう叫んだ本多が手を二度叩くと、後ろのドアが開いて看護師が二人、部屋に入ってきた。そしてどういうつもりか、僕を羽交い締めにすると、外へ引きずり出そうとする。
「何すんだよ、離せ」
突然のことに慌てた僕は、必死にその腕を振り払おうとした。しかし、二人がかりで押さえつけられているため、どんなに暴れても身動きひとつ取れない。
「まあ、何てお口の悪い子」
「そうよ、大人しくしなさい」
僕を押さえつけながら、二人の看護師が初めて口を開いた。振り返って二人の顔を見ると、彼らは「看護師」などではなかった。
「そんなこと言ってたら、後でお仕置きしちゃうんだから」
「そうよ。でもよく見たらこの子、なかなかかわいい顔してるじゃない」
ニューハーフとかそういう次元ではない。完全に男だ。ナースの格好をしてはいるが、自分が男であるということを隠そうとしていない。ひとりはスキンヘッドに両耳ピアスだらけ、もうひとりは濃すぎる口ひげ、割れたあごにポマード。こんな人たちと万が一のことがあれば、次の日から自力で排泄することはできなくなるだろう。
「心配しなくても大丈夫よ。イボ痔なんてね、アレすればすぐなくなっちゃうんだから」
「そうよ。あたしたちのお注射で、イボ痔なんてイチコロよ」
「嫌だ! 誰か助けて」
必死の抵抗もむなしく、二人の大男に引きずられ、僕は無理矢理診察室をあとにさせられた。そのまま廊下に出され、再び「東病棟」へ連れて行かれる僕を、診察室の前のベンチで寝ていた老人が笑いながら見ていた。その、引きつったような笑い顔を見ていたら、僕はようやく、その老人をどこで見たのかを思い出した。
The Nightmare is still young…
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