病院を抜け出した帰りにオヤジ狩りにあう
急いでトイレに向かうと、すりガラスの向こうに浅田さんのサンダル履きと、向き合うようにして四本の足が見えた。深夜、人気のないトイレに老人がひとりでいたので、狙われたのか。
「浅田さん、無事ですか」帰りの高速代は。
僕の声に、浅田さんの肩を掴んだ男と、少し離れてそれを見ていた男が同時に振り向いた。二人とも二十歳前後で、ひとりは坊主頭に金のネックレス、上下ロゴの入った赤ジャージ。もうひとりは白のジーンズに黒のシャツ、色黒・長(茶)髪サングラス。いかにも田舎の不良少年という出で立ちで、二人はパジャマ姿の僕たちを見てえっと声を上げた。年齢もばらばらの男たちが、突然パジャマ姿でトイレに駆け込んできたら誰だって驚くか。しかもここは高速道路のサービスエリア。
「浅田さんどうしたの」
高山さんの声を聞くと、浅田さんは困った顔でこちらを見た。二人組みはまだ状況を把握できない様子で、訝しげに僕らと浅田さんを交互に見ている。
「何だよ」
「浅田さん、何かされましたか」
「いや、用を済ませて個室から出たら、彼らが近寄ってきて。手を洗って出ようとしたんですけど、ボケて家出したのかって追いかけてきて」
「とっ、年寄りをバカにすんじゃねえ」
二瓶さんが顔を紅潮させ声を荒げた。怒りも最もだが、浅田さんは二瓶さんが自分を同じ「年寄り」と呼んだことが面白くないのか、複雑な顔をしている。
「モリオ、ちょっと手伝って」
眠いのか、呼んでもモリオは呆然としている。モリオ、と再度呼ぶとようやく我に返った。
「この人押さえてて」
「ああ」はい。頭を掻きながらモリオは坊主頭の後ろに回り、彼を羽交い絞めにした。寝起きのせいか力加減がうまくできないらしく、男の足が十センチほど上がった。「痛え」と苦悶の表情を浮かべ「離せよ」と唾を飛ばす。茶髪の方が動きかけたが、遮るように立ちふさがった高山さんを見て固まった。
「聞け、不良少年」坊主頭を、サッカーボールを掴むように扱う。「お年寄りにそんな口をきくもんじゃない」
「何なんだよ」モリオに捕まれながらも、坊主は凄む。
「お前らがからかった老人は、不治の病なんだぞ」
浅田さんを顎でさしながら言った僕の言葉に、その場の空気が一瞬固まった。「急に何だ」と眉根にしわを寄せる坊主の後ろで、モリオまでなぜか驚いた表情。
「この人は末期の結核患者で、もう長くないんだ。最後に海が見たいって言うから、俺たちはそれを叶えるために病院を抜け出して来たんだ」
坊主頭が僕から目をそらし、パジャマ姿の全員を見渡して納得した表情になった。
「お前らは、この人の人生最後の思い出に泥を塗った」
喋ってばかりで手を出して来る気配がないのに安心したのか、坊主の目の色が、徐々に侮るような色に変わってきたが、構わず続ける。
「知ってるか。結核は苦しいぞ。昼間だろうが夜中だろうが、血を吐き続けるんだ。バケツ何杯もの血を毎日吐いて、うつるからって隔離されて、家族にも会えないまま死ぬんだ」
坊主の目の色がまた変わった。何か得体の知れないものを恐れる顔。
「家族に会うと菌がうつるから、会いたくても会えないんだよ。本当は俺たち、外に出ちゃ行けないんだ。健康な人の五メートル以内に近づいただけで、菌がうつるから」
結核という病気をこの男たちがどの程度知っているかは知らないが、脅しの効果は十分にあったようだ。今や坊主の顔は完全に青ざめ、小さな子どもが嫌々するように首を振り、僕から逃げようと必死になっている。しかしモリオに押さえられているため、足をバタバタさせるだけで身動きできない。
「僕と君、今、五メートルどころか、一メートルも離れてないよね」
手招きし、浅田さんを坊主男の前に立たせる。両手を肩に置き、聞こえる声で耳打ちした。
「浅田さん、こいつに思いっきり咳でもかけて、結核菌をうつしてやるのはどうですか。浅田さんよく、自分が生きてきたという証しを残したいって言ってたじゃないですか。彼がそれを受け継ぎますよ」坊主に視線を移し、微笑む。「菌だけど」
趣旨を理解した浅田さんが僕を見て笑った。「ほら」と背中を押すと、ひとつ大きく咳払いをしたあと、坊主の顔目がけて豪快に咳をかけた。その勢いが良すぎて、モリオのシャツに唾がいくつも飛んだ。
「どうせなら二瓶さんもどうですか。ついでに」
そう言って振り返ると、トイレの入り口近くに立っていた二瓶さんの顔は輝き出し、腕まくりして坊主に近づいてきた。そして浅田さんよりも豪快に咳をかけた。浅田菌に引き続き、うつったら二度と出て行かなさそうな二瓶菌まで浴びている坊主を見ていたら、憐れになってきた。しかし残念ながら、入院してから一ヶ月以上経っている二人の体内に菌はいない(はずだ)。とどめに二瓶さんはカァーッとやりかけたので、さすがに止めた。
二瓶さんの咳攻撃が収まり、モリオが羽交い絞めにしていた手をようやく離すと、坊主はがっくりと膝をついた。勢いに乗る二瓶老人が茶髪の方を振り返り、「うふふ」と不適に笑うと、茶髪の方も愕然とした顔でその場にへたり込んだ。そこへ浅田さんが「トイレに誰か来るよ」と言ったので、僕は坊主の前にしゃがむと、ザラザラする頭を再び掴んだ。
「いいか少年。これからはトイレでパジャマ着た老人を見ても絡むなよ」
「お大事に」と言うと、二人はよろよろと立ち上がり、トイレから去って行く。入れ違いに五十代位の男性がトイレに入って来て、小便器の方に向かう。しばらく我慢していたが、やがて誰かが吹き出し、大声で笑った。いつまでも笑う僕たちを、小便しながら男が不思議そうな顔で眺めていた。
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