「干渉しない」という愛。

年末のバタバタを言い訳にして、しばらく更新が途絶えてしまった。

そんな最中でも少し機会を頂いて、改めて自己理解を深めている途中だ。

自分が子どもの頃、家族、特に両親との関係性はどうだったか、について改めて尋ねられる機会があった。この質問に対しては結構説明が難しいのだが、言葉にするならば、「仲良くはない」という感じだろうか。「干渉しないようにしている」と言った方が正確かもしれない。

そうなってしまった原因として個人的に考えているのは、3つ上の姉が反抗期になってから母親と姉がぶつかることが多くなり、母親側の愚痴がずっと私の耳に入ってきたことで、「私はぶつからないようにしよう」と考えたのではないか、というものだ。だから、いわゆる「反抗期」も、体感的には無かった。ここから、家族に限らず私が関わるあらゆる他者に対して「干渉しない」という個性が生まれた。

この性質について、私はあまりポジティブには捉えていなかった。なぜなら、「干渉しない」ということが、なんだか「愛」や「情」といったものからかけ離れているように感じていたからだ。私は自分のことを「他者にあまり干渉せず、興味もないドライな人間だ」と思っていた。そういう人間らしさの無いところが、コンプレックスでもあった。

しかし、話をする中で、その性質に対する新しい解釈が提供された。それは、私が「家庭の中、いわば身の回りの『戦場』に対して、自分でどう対処するかを自分で考えて頑張って生きてきた結果だ」というものだ。

子どものときは、なぜその行動を取るのかをいちいち深く考えたりはせず、本能的に決めている側面が強いはずだ。生存戦略として「自分の本能に従う」⇒「自分の意志を主張する、通そうとする」のではなく、「環境に合わせる」という方法を選んだ、ということではないか?「干渉しない」という行為は、自分の気持ちと家族を同時に守るために取った行動であり、それはあくまでも周りの人を守ることを念頭に置いた上での選択であって、それが「私なりの他者への愛情表現」なのではないか?そして、その経験の中での学びを繰り返して常習化したものなのではないか?

自分の中では「他者に干渉しない人間=冷徹な人間」だと思っていた。だから、その性質を「ドライな人間である」ということばで表現してきた。改めて考えてみると、「関わって相手を傷つけるくらいだったら、関わらない方がいい」という信念によって相手を守ろうとしていたのかもしれない。

こうした新解釈によって、私自身にも「愛」や「情」みたいなものが内在する可能性に気づくことができた。私にとっての「愛」の捉え方がまた少し変化し、アップデートされた気がした。

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ともやの思考整理note
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