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日本の伝統芸能に日本的価値観の粋を見たのです。

今日は、昨日見た文楽人形劇(人形浄瑠璃)について書く。

今回の演目は外国人向けのものだったから、第1部は文化について紹介するコーナー、第2部が実際の人形浄瑠璃の演目鑑賞コーナー、となっていた。

第1部では、英国人風のイケボでダンディな男性のMCで、人形を操る人(「人形遣い」と呼ぶ)を迎えて、文楽人形の文化や人形について紹介していた。真面目な私は当然、ここに来る電車の中で事前に文楽人形や今日の演目である「絵本太功記」についてあらかじめ頭に入れておいたのだが、演目についてはもとより、人形の動かし方や、歌舞伎の見得のような「型」の説明もあって、大変興味深かった。

実際に人形遣いの人が出てきて、その動きを実演しながら説明してくれたのだが、まず英語がどうとかは置いておいて、人形の動かし方が面白い。

文楽人形は、普通の人形劇の人形と異なり、主要キャラクターの人形を3人の協力体制で動かす。それぞれ役割は異なっていて、体・頭と右手を動かす「首(かしら)遣い」、左手と小道具の出し入れをする「左遣い」、両足を動かす「足遣い」がいる。

この中では、「首遣い」だけが素顔を出していて、他の2人は黒子となっている。それは、「首遣い」が最もベテランが担当するポジションだからだ。「足遣い」⇒「左遣い」⇒「首遣い」の順で徐々にスキルアップしていくのだが、1つのポジションに習熟するのになんと10年~15年かかるらしい。

ひねくれている私は、「すげー、そんなことやってる間に死んじゃうよ」と思ったのだが、周りの外国人も「Wow~」と感嘆の声を出していた。また、人形の実演の様子を見て、その動きに対して少しずつ笑いが起きたりする。このように、どこが外国人的にinteresting pointなのかが、周りの反応を感じてわかるのがまた面白い。

その他にも、「足遣い」は「首遣い」と同じ足さばきになるように人形を操りながら足音の効果音を担当したり、「左遣い」は片手で小道具を出し入れしなければならなかったり、細かいところに様々な技術が散りばめられているように感じた。

外国の人たちに囲まれて日本の伝統芸能を見るという、とても新鮮な体験をしていることが、少し面白くなってきた。

そうして冒頭のコーナーが終わって20分間の休憩の間、私は今日の体験をこのブログのネタにしようとスマホをいじいじして文章を書いていた。すると、右隣にいた彫りの深い男性(同じ大学の学生のはずだ)が、私の左隣にいたこれまた彫りの深い男性に話しかけて、アーモンドチョコを差し出した。
彼らはすでに知り合いなのだろう。そしてその後すぐ私にも、いるか?と話しかけてきた。小腹が空いていた私は、断るのもなんなので「Thank you」と言って素直に頂いた。こういう気前の良さは日本人には無いよなぁと思わされた。

そうして第2部が始まった。

第2部を通して、始まる前に入口で配っていた音声ガイドを耳に装着してみると、演目の内容について、都度説明が入るようだった。初めのうちは舞台と音声ガイド、どちらに集中しようか思案したが、のちに音声ガイドをしっかり聞くことにした。演目を見せるところと、解説のバランスが良かったからだ。

実際の人形浄瑠璃の演目は、人形遣いによる人形芝居だけではなく、語り手である「太夫」と、「三味線弾き」の3者が合わさった「三業」によってつくられている。

「太夫」は、登場人物のセリフ、情景描写、ナレーションの全てを一人で歌い上げる形でこなす。落語の原型だったのだろうなぁということを想起させる。男女の演じ分けや、感情表現が印象的なその声は、聞いているとずっと呼吸が苦しい感じで、ずっとやっていたら声を潰してしまいそうだ、と不謹慎なことを思った。

「三味線弾き」は、表情を変えることなく様々な効果音を出していて、いったいどんな楽譜をもとに練習するのだろうか、ということが気になった。

そして、メインキャラクターの人形が全員集合したときに驚いたのは、人形を操る人間のなんと多いこと!登場人物が5人いるだけで、人形を操るのはその3倍の15人が必要なのだ。1人で人形を操る普通の人形劇はもとより、15人が一斉に舞台上に上がっている人間劇も珍しいから、なおのこと驚いてしまった。

しかも、1演目を複数に分けて、それぞれを別の太夫&三味線弾きが担当することになっていて、それが今日は3組!1回分の公演をつくるのに、一体何人の出演者がいるのか、と驚かされた。そして、これはお金かかるだろうなぁー…とつい思ってしまった。

さて、今日の演目は「絵本太功記」という全10章の中から、「夕顔棚の段」と「尼ケ崎の段」という2つの章が上演された。本能寺の変を起こした明智光秀をモデルとする主人公のお話である。

あらすじなどはここでは割愛する。気になる方はご自分でお調べください。

私が印象的に残ったのは、まず、とにかく1つのシーンが圧倒的に長いことである。もし現代劇や大河ドラマならば、もっとサクサクと進むであろうシーンが、超絶ゆっくりと、感情表現が過剰なくらい豊かに行われているのである。

私はそれに眠くなりながらも、なぜこのような設計になっているのか?ということを考えながら観ていた。当時の庶民に大人気だったはずのこの人形浄瑠璃は、一体どこが人々にウケていたのか?当時の人々は、この話のどこにカタルシスを感じていたのか?

ここからは私の想像だが、きっと当時の人々の日常は、もっとゆっくりと時間が流れていたのだろう、と思う。現代のように、瞬時に楽しみや快楽を得られるようなスマホやゲームは当然存在しない。日中の仕事も、戦後社会のような馬車馬のような働き方では無かっただろう。そういう生活の中に根付いた娯楽も、同様にゆっくりと進行し、かなり大袈裟な感情表現や溜めを作ることによって、人々に娯楽や感動を与えていたのだろう。

そして、もう1つ印象に残ったのは、そこに登場する人物たちが、一体何に葛藤しているのか、ということだ。これは人形浄瑠璃だけではなく、この戦国時代から江戸時代にかけての当時の社会の価値観において共通のことかもしれない。

なんとか生きていきたい、と考えるのではなく、どのような死に方をするか?が問題になっているように感じたのだ。

例えば、主君である信長を討つという重罪を犯した光秀の息子の十次郎が初陣に向かうとき、光秀の母は「敵に仇討ちされるよりも、自ら戦に出て戦って死ぬ方が十次郎のため」と考えていた。

他にも、登場人物である光秀の妻や十次郎の婚約者(演目内で祝言をあげて妻になる)がそれぞれ何かしらの悲しみを感じていた。

私が注目したのは、その葛藤の内実である。

この物語は、登場人物それぞれが葛藤を抱えているのは間違いないのだが、それを乗り越える物語ではなく、それを苦しくも受け入れる物語だったのである。

この人形浄瑠璃が当時大流行した、という状況を考えて、私は、あぁ、ここに日本的価値観が刻み込まれている、と思った。

この「運命を受け入れることが美しい」という価値観は、日本人に欠けているということに最近気づいた、「自分の運命やこの世界は確かに変えられる」という価値観とは真逆のものであると感じざるを得なかった。

たまたま鑑賞の機会を得た人形浄瑠璃だったが、最近の自分の思考とも相まって、大変楽しく鑑賞できた。

今日のゼミ発表も、なんだかんだで何とかなったし、あのとき観に行こうと決めてよかった。

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ともやの思考整理note
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