立つ鳥跡を濁さず。
「立つ鳥跡を濁さず」という言葉が私は好きだ。今まであまり意識してこなかったけど、よくよく自分の過去を振り返ると、自然とそういう行動を取っていたのではないかと思う。
例えば、私が7年間いさせていただいた研究室居室を出て別の建物に行くときには、自分が使っていたもの、置いていた荷物は全てキレイに1つ残らず新しい部屋に持っていき、元の居室には私のものは何一つ残さなかった。共有フォルダに入っていたデータの類も、本当はごっそり抜いて持ってきたかったが、後輩たちの財産になるものもあるのでさすがにそれはせず、しかし中身をきちんと整理して参照しやすいようにして残してから外に出た。
これはどうやら普通のことではないらしい。単に私が整理整頓好きなだけの可能性もあるにしても、過去の先輩たちや同期、後輩たちの例を見る限り、私のようなタイプは明らかに少数派だ。彼らが自分の手荷物を居室に残して去り、後輩たちが処理に困っている例も散見されるし、データフォルダに関しても同じく有効活用できない状況になっていて困っている例がある。
私はそういう、少なくとも後に残っている人たちが最低限困らないように場を整えてから外に出るというのが好きだ。これは、研究室居室のような長期間使用する場所でもそうだし、短時間のみ使用するような貸会議室やカフェの席についても同様に、「あたかもそこに自分がいなかったかのような状態にしてその場を後にする」ようにしている(これは多くの人もマナーとしてそうしているかもしれないが)。
私はこれを、マナーというよりもむしろ、ある種の美学のように捉えている気がする。
上記は物理的な空間の話だけれど、同様の美学は組織やコミュニティについても適用される。ある組織やコミュニティに所属していたとしても、そこを出るときには、「あたかもそこに自分がいなかったかのように去る」ことを無意識のうちに志向している気がする。究極的に言えば、私が死ぬときには「あたかもこの世界に私が生きていなかったかのように死ぬ」ことを求めている気がする。
それがなぜなのかはよくわからない。ある人にこの話をしたら、「何か世界に自分が生きた証を残したいと思う人はいそうだけど、その逆は少ないかもね」と言われた。確かに、と思った。少なくとも人類の歴史は、先人たちの到達を学習した現代の人間が、後続の人たちにその発展を手渡す形で作られるはずだ。仮にその進度がわずかであったとしても、そこに生きた人間たちがなんらかの影響を与えているのは確かだ。むしろ、「後続の人たちに対して価値ある何かを手渡したい」と思う方が自然な気がする。私の考え方が広く受け入れられるとはあまり思えない。
自分にそういう思考の傾向があるな、ということはわかったけれども、それがあまり褒められたことではなさそうだ、という結論になってしまった。
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