勝った51がどれだけ残りの49を背負えるかが重要なのです。
『なぜ君は総理大臣になれないのか』という映画を見た。
現・立憲民主党の小川淳也氏のドキュメンタリー映画である。
普段から頻繁に映画を見ることなどほとんどない私が、なぜこの映画を見ることにしたかというと、Facebookに流れてきた動画でたまたま小川氏が国会で厚生労働省の統計不正問題について質問している動画を見たからだ。
その語り口や様子を見て、この人はそうした問題に対して、自身の経験も踏まえて誠実に向き合っているのではないか、と思った。
そこで小川氏について少し調べてみると、なんとドキュメンタリー映画が作られているではないか。
政治家のドキュメンタリー映画と聞いて最初は、政治家のことだから、素晴らしい経歴や成果が語られるものなのだろうな、と思ってHPを読んだり予告編の動画を見てみると、どうやらそうでもなさそうだ、ということに気づいた。本当に小川氏のありのままの姿が描かれているように感じたのだ(それがドキュメンタリーというものかもしれないが)。
映画の中では主に、自身の選挙区(香川1区)での選挙戦の中で、小川氏が何をどのように考えてきたか、どんな葛藤と悩みを抱えながら政界の中で生きてきたのか、そしてそれを支える家族や支持者たちの姿が描かれていた。
より詳しい内容は映画に譲るとして、以下、それを見た印象に残った部分についての私の感想と、思ったことや考えたことを書いていく。
私が特に小川氏の思想や基本的な信念を表していると思った言葉は、その映画の中でも監督が印象に残ったフレーズとして挙げていた、以下のような言葉だ。
支持者に対して語るときにも、「○○さんほど右ではないが、△△さんほど左でもない。自分は本当は中道のど真ん中を行きたいと思っている」という発言が出てくるように、小川氏はおそらく非常にバランスを重視し、それに対して誠実に向き合っている人なのだろうと思った。
しかしその誠実さは、たとえ政治家ならずとも、あらゆる人間集団をまとめる立場の人間にとって忘れてはいけない姿勢だと思った。
どんな人間集団であれ、多様な価値観を持つ人間たちが集まれば、意見の相違は生まれるものだ。しかし、あるタイミングでは何かしらの意思決定を行い、集団を一つにまとめて動かさなければならないときがある。そして、その集団の規模が大きくなるほど、それに責任を持つリーダーの担う責任と重圧は計り知れないほど大きくなる。
そんなとき、大事になるのが先の言葉だ。
多数決というのは、集団における意思決定の1つの方法論に過ぎない。本当は全員が納得できるまで議論を尽くせるのが良いに決まっているが、やはり時間制限というものはある。その現実的な制約の中で、何とか多数決という方法で折り合いをつけているに過ぎない。
たとえ一時の多数決で勝利したとしても、それは多数派の完全勝利を意味するわけではない。だからこそ、多数派になった51の側が、残りの49の側についた人々の思いにも常に寄り添いながら集団をまとめていくことが大事になるのだ。
この人間集団をまとめる営みこそが「政治」であると思うのだが、私の個人的な意見では、この「人間集団をまとめる」という意味での「政治」という仕事が、この世界で一番難しい仕事なのではないか、という気がしている。
そういう仕事を担えるのはやはり、明晰で、かつ自分の意見と異なる意見に対しても真摯に向き合う姿勢とバランス感覚を持った人間なのではないかと思うが、今現在の日本の政治家にそういう人間はどれだけいるだろうか。
むしろ、そういうバランス感覚と誠実さを持った人間がこの国で政治家になるのは難しい。
社会を変えるために、党内で出世し、国家運営や政策立案の中枢に関わるような要職に就くためには、一定のしたたかさが無ければ太刀打ちできないのである。
確かに、誠実にただ正しいことを言っているだけでは、「いわゆる政治家」は務まらないだろう。現代日本社会で政治家として生き残っていくためには、剛腕が求められることも大いにある。
しかし私は、「政治」という高度な営みそのものは、こういうバランス感覚のある、誠実な人間がその一翼を担わなければならないとも思うのである。
今の社会状況を見て政治家のことを責めるのは簡単だが、理想とする社会や思想信条が自分自身と一致しているいないに関わらず、真に「政治」に取り組もうとしている誠実な政治家に対しては、我々一般市民は特に意識的に、リスペクトを持って対しなければならないと思う。
なぜなら、政治という営みそのものが、非常に目に見えにくいからである。
こういう仕事を、我々の気づかないところで担っている人がいるということを忘れてはならないという思いを新たにした。