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特別な誰かの前では輝いていたいのです。
これまでのいくつかの具体的な経験も相まって、私の「愛情論」についてある程度納得感が形成されてきた。
しかし、まだ少し解釈に悩む「愛」というものの表現に出会ったことがある。
それは、「知の体力」という本の一節である。
この人の前では輝いていたいと思うこと、それがすなわち愛である。
私も、「この人の前では輝いていたい」と思うことがある。それは、これまでの人生の中で自分のことを認めてくれたり、肯定してくれたり、尊敬してくれたりする人たちに対してである。
特に、今自分が普段の活動で関わっている子どもたちや青年たち、研究室の後輩たちにとって、カッコいい大人でありたい、と思っている。
先の「愛」の定義によると、こうした感覚も私から彼らへの「愛」と言えるのかもしれない、と思った。それは、彼らの期待を裏切らないという意味でもある。
では、このことは私の愛情論においてどのように解釈すれば良いのだろうか、と考えた。
その結果思い当たったのは、自分が彼らの目の前で輝いている大人であることによって、彼らが目指すロールモデルの1つとしての役割を果たし、彼らに生きる目的を与えることになる、ということである。
彼らの周りに、1人でも多くの「目指したい大人・先輩の姿」を用意するつもりで自分が生きることで、彼らの人生に生きる意味を与えるのである。
なんとおこがましい態度であろうか、とも思ってしまうところだが、逆に言えば、これが彼らに対する愛でなくて一体何だというのだろうか。
全く見ず知らずの人々に対しては決してそう思わないだろう。自分のことを良く思って認めてくれている人たちだからこそ、そう思えるのである。
こうした考えが、自分にとっても生きるモチベーションになるから、たとえおこがましいと思っても、心の内では大事にしていきたいと思っている。
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