悲観論者は楽観論者に憧れるのです。
この世の中には、ポジティブな思考とネガティブな思考がある。
私自身はどちらかといえばネガティブな思考をするクセを持つ人間だ。だから、自然とポジティブな思考ができる人に対する憧れの気持ちがある。
思考のクセというのは幼少期に作り上げられることが多く、それに無意識でいるうちは、その思考のクセによって過去の経験を捉えることで、そのクセが強化される方向に働く。
そうした過去の経験についてはこのブログの端々でこれまでも書いてきたが、そのようにクセが強化されることに気づいてからは、少しは物事をポジティブに捉えたり考えたりできるように普段から意識しているつもりだ。
このような、物事をどう考える傾向にある人かを表現する言葉の例として、「楽観論者」「悲観論者」という言葉が存在する。
ここで改めて、これらの言葉の意味を考えてみよう。
まずは例によって、辞書的な意味を確認する。ここでは、それぞれの価値観を表す言葉として、以下の2つを参照しよう。
「哲学上の立場」とかなんとか言われると、とたんに難しい言葉のように感じるなぁ。
しかし、よく読めば言っていることは非常にシンプルで、言わばこの現実世界と人生の行く先を、積極的に肯定するか、積極的には価値を認めないか、の違いである。
この意味を理解した上で私は、この価値観に基づいた思考や行動をする「楽観論者」と「悲観論者」には、それぞれ美点と弱点があると考えた。
悲観論者に近い自分として考えられる悲観論者の美点の1つは何かというと、物事を慎重に判断できるから失敗をしにくいということだ。ある行動を取ったときに起こり得るメリットやデメリットをより深く考えて、それを判断材料にできる。
しかし、悲観論者の致命的な弱点は、行動した結果のデメリットの側面が強調されすぎるあまりに何のアクションを起こすこともできなくなると、成功確率がゼロになってしまうことだ。自分にはできない、未来には期待できない、と「信じた」瞬間に、実現可能性がゼロになってしまうのである。
一方で、楽観論者の美点は、何よりも人生を前向きに生きていけることである。自分の理想として掲げたものはいつかきっと必ず実現できると考え、諦めずに行動し続けられる可能性がある。そして、行動し続ける限り成功確率は時間的に上昇していき、目標を実現した瞬間に成功確率は1になる。
しかし、楽観論者にも弱点はあって、無計画かつ無防備に大胆な行動を繰り返してしまうと、一度の大きな失敗が命取りになる可能性がある。
このようにそれぞれについて考えてみて思ったことは、私は悲観論者にも楽観論者にもなりたくない、ということだ。
時と場合に応じて彼らの良いとこ取りをすることができたら一番良いのだと思う。これは、私の専門でもある「リスクマネジメント」の立場にも通じるところがある。
これをシンプルに一言で表現するならば、「現実世界を『適切に』恐れよ」という言葉になるだろうか。
悲観論者の特性を使って、あるアクションを取ったときにどういうことが起きるかどうかについてよくよく考えておき、デメリットがなるべく小さくなるようにする。しかし、それをしすぎて全く行動できなくなると成功確率はゼロになってしまうから、あるタイミングでは思い切って行動する必要がある。その行動を決心するためには、楽観論者のように「成功する可能性がゼロではないと信じる」必要がある。
自分自身がどちらの思考を取りやすいのか、というクセを自覚して、そのときどきでの自分の考えや物事の捉え方に自覚的になることができれば、悲観論者・楽観論者それぞれの特性を活かして、より良い選択肢を選んだり、より良い行動を取ったりすることができるのではないかと思っている。
楽観論者への憧れの気持ちを、楽観論者の特性をうまく自分自身に取り込む形で活かしていきたいと思う。