幸福の5条件。
前回の記事の続きとして、他にも考えたことがある。
私自身に限らず、これからの社会を生きるにあたって大事になりそうなこととして、「自分なりの幸福のかたちを考えること」が重要な意味を持ってきそうだ、と思った。
動画の中では、人間が幸福を感じるための5つの条件として、「①達成」「②快楽」「③人間関係」「④意味合い」「⑤没入」が挙げられていた。この5つのうち、どれが自分にとって最も幸福感を与えてくれるかどうかは人によって異なるだろう。だから、これも一人ひとりそれぞれが上手く組み合わせて自分の人生を設計していくことが必要になりそうだと思う。
動画の中でインタビュアーの方が触れていたように、私も「①達成」「②快楽」に関してはあまり期待できないところがある。確かに何らかの目標を掲げれば一定程度の成果は出るのかもしれない。一時の快楽に興じることもできるだろう。その達成までに長い苦労が伴うようであれば、その分達成したときの充実感も大きいだろうということは予想できる。
しかし、それに実際に取り組む前の段階で、にどうしても「それで?」「何の意味があるの?」という感覚が自分を襲ってしまうのだ。それを達成したあとの充実感は決して長く続くものではなく、結局はそれも人生におけるかりそめの感覚であって、その後も人生は続くのである。
いまここで問われている、この「実際に取り組んでいないのに、その後の状況が見えてしまう感」による悩みは、もう少し現代的に述べるならば、大情報社会の中で「壮大な暇つぶしである人生における、退屈しのぎのその先」が見えやすくなってしまっていることに起因するのではないか、と思う。
しかし、そのような状況の連続である人生に向き合い続けなければならないのも事実だ。これに対してどう向き合うか、が重要である。
少し捉え方を変えるとすれば、「それで?」と思ってしまうのはある意味では良いことで、要するにその先に考察の余地があるということを意味しているのではないか。
つまり、自分が何かを実行して、それがうまくいくにしてもいかないにしても、何かしらの結果が出たことを見て、何を思うか?何を考えるか?「自分/他者/集団/社会にとってどのような意味があったのか?」を考えることが、1つ大事なことなのではないだろうか。これに対する解を与えようとする行為である「意味づけ」を諦めないことこそが、人間的に生きることなのではないだろうか。
これは結果として「④意味合い」に接続するだろう。自分の行ったことが、何らかの形で何かの役に立っているという意味合いをそこに見出すのである。
「③人間関係」もそれに近いものがあるかもしれない。「他者にとって意味があった」と理解することができれば、それは人間関係の中から幸福を得られている状態を意味するだろう。
とはいえ、そうした意味づけすらもできないとしたらどうだろうか。そうなった場合は、最後の「⑤没入」を選択するしかない。つまり、別に意味などなくてもいいから、とにかく自分が時間を忘れて没頭できることに取り組み続けることで幸福を得る、というやり方だ。
その「没入できる何か」が、たまたま結果的に他者や社会のためになる場合もあるが、そうでない場合も往々にしてあり得る。しかし、「それでもいいのだ」と自分自身の没入への欲望を受け入れることが重要だろう。