
何もしなくてもいいのです。
「やりたいことをやれ」という謎の圧力をどこからか感じているような気がする。
本当は誰もそんなことを言ってはいないのだけど、幻聴なのだろうか。
いや、そんなこともないかもしれない。今の私の本業は研究者という仕事で、基本的に多くの大学研究者は自分自身の内発的動機をもとに何を探究するかを決めて日々取り組んでいるはずだ。そして、もしこれからも研究者として生きていくならば、その内発的動機や軸となることを適切に言語化しておくことが必要だ。
しかし、今の私はどうやらこれを圧力に感じているようだ。
本当は、「何もしなくてもいい」が正解なのかもしれないが、「何かしらやらなければいけない」という謎の圧力、焦り、焦燥感は一体どこから来るのだろうか。何かやっていないと、怠けているのではないかと思ったりする感覚は、まだ若いから生じるものなのだろうか。中々実績や成果が出せている感覚がしないからなのだろうか。
この「何もしなくてもいい」を肯定することができたら、きっともっと楽になれるのかもしれない。
何もしなくてもいいし、何かしててもいい。気が向かないことはやらなくてもいいし、気が向くことはいくらやってもいい。
私は今も昔も、自分こそがやりたいことが特に無い気がしてきたので、基本的には他者からの依頼や世間からの要求をもとに生きてきたと思う。特定のコミュニティの中では、誰かに求められた役割を担ったり、周りの人たちを見ていてなんとなく不在そうな役割を担ったり、社会的にはこういう人間がいた方が良さそうだというような烏滸がましい発想をもとに生きてきた気がする。
そこから、自分にとって新しい発想として、「やりたいことをやるべし」という価値観がインストールされ、それを実践してみようと思ってはみたものの、結局自分の内側からそういう要求はついぞ出てこなかった。
いや、出てきたけれども長続きしなかった、というのが正しい表現か。一時期はこれまでの抑圧を解放するかのように振る舞い、自分の身体が自由に伸び伸びと動いている感覚を得ることもあったが、少し経つとその感覚も薄れ、また内的エネルギーが失われたような気がした。
約1ヶ月前にInstagramの毎日更新を始めて、1ヶ月程度継続し、大体こういう感じか、というのがわかったので最近更新をやめた。
何がわかったかというと、私は自分が生きるために何らかのルールを必要とする人間だった、ということだ。
自由気ままに生きる、ということは私にとって不可能だ。自分自身の行動や生活に対して、何らかの意味づけを必要とする人間なのだ。
自分自身を縛る何か(表現が難しいが、自由になるために必要な行動ルールもある)がなければ前に進めない人間なのだ。
「何もしなくてもいい」というルールは、ルールのようでルールではない。あくまで行動をしないことを許容するということを表明しているに過ぎないのであって、行動指針を積極的に指し示すルールではないのだ。
そんな人間だから、「何もしなくてもいい」という生き方には非常に生きづらさを感じてしまう。
「何もしなくてもいい」を肯定することができるようになるのだろうか。
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