褒められているうちはまだ甘い。
褒められようと思って何かをしているうちは甘い、と思う。だから私は、どんな仕事をするにしても、褒められるために取り組むことはない。
大事にしているのは、「なぜ取り組むのか」という自分自身にとっての意味づけと、最終的なアウトプットに対する自分自身の納得感だ。その仕事に取り組むことによって、今の自分にとってどんな良いことがあるか、どんな学びや成長があるか、それは自分にとってどのくらい必要で重要なことか、などについて考え、意味づけをする。そして、取り組むときには自分なりに納得がいくところまでやる。誰かに何かを言われることがあまり気にならないのはそのためだろう。
逆に、そういう意味づけや納得感が無いままでいると、途端に不安定な状態に陥る。取り組んでいることに対する自分なりの意味が失われると、一気にやる気が無くなって体が動かなくなってしまう。
研究室で学生をしていた頃、学会発表が終わった直後に准教授から「勝った?」とだけ質問されることがよくあった。はじめはその質問の意図がよくわからなかったのだが、後から考えると「勝った感覚があるか?」すなわち「自分の中で納得感のあった発表だったか?」ということを問われていたのだと思う。
私は仕事に取り組んでいる最中もなかなか納得できない方の人間なので、本当の意味で「納得感がある」ような清々しい気持ちになったことはあまり無い。しかしそれでも、少なくとも自分が納得いかない間は思考することを止めない、ということにしている。
冒頭の話に戻ると、褒められようと思って始めたこと、取り組んでいることは、何らかの批判に晒された瞬間に手放してしまう可能性があるという脆弱性を孕む。逆に、「仮に批判されたとしてもやりたいこと(やってしまうこと)」が、本当に自分にとって大事なことである可能性が高い。
このように考えると、その「やりたいこと」のベースにあると考えられるのが、以前にも書いた「ストレングスファインダー」などのテスト結果なのだと思う。私の場合は、「内省・規律性・調和性・公平性・分析思考」の上位5位までがキーワードになるだろう。こうした自分の特性を活かしながら取り組める仕事をしていく方が、自分にとっての幸福度は高そうだ。
ただ、ここまで「仕事をするかしないかに褒められるかどうかは関係ない」という話を書いたが、本当に目指すべきはその先にあると私は考えている。
それは、「そもそも褒められもしない」という領域だ。
何らかの仕事に取り組んでいるとき、自分は別に褒められようと思っていなくても、そのクオリティが高いと認められた場合は結果的に誰かに褒められることがある。それはそれで悪い気持ちはしないのだけど、とはいえ「褒められているうちはまだ甘い」とも思う。
なぜなら、本当に偉い人というのはおそらく、ほとんどの人に気づかれないうちに大事な仕事をしているが、そもそも気づかれないから褒められることも無い、という人のことを言うのだと思うからだ。
そういう仕事の仕方ができるようになったら、一流なのだろうな、と思う。