自分だけの物語。
昨年1年間は、いや、もう少し前からかもしれないが、ずっと停滞感のある期間を過ごしてきた気がする。
その謎の停滞感を何とかするために、その原因や抜け出し方について色々と考えたり行動したりしてみてはいるものの、明確な糸口はまだ見つかっていないように感じる。
ただ、自分がそういう悩みや課題感を抱えていることによって、自然とそれに関連する情報に触れる時間が増え、少なくとも1年前よりは自分の状態への理解度が確かに高まっている。
1ヶ月ほど前に、幻冬舎の箕輪氏がZ世代特有の感覚に対して助言している動画を見て私の自己理解が深まったことについて書いた。箕輪氏は一般には「ミドルエイジクライシス」と呼ばれる状況に陥ったことを最近吐露していて、その経験も踏まえてZ世代の若手編集者に助言しているのだった。
一方の私も、それと似たようなクライシス状態にあるのではないか、というのが最近の自分に対する個人的仮説だ。何かよくわからない喪失感に苛まれると共に、端的に言えば人生において「何をすればよいかわからない」状態に陥っているような気がするのだ。
ここで、私にとっての「喪失」とは何だったのかを改めて考えると、それは自分の中で潜在的に抱えていた大きな疑問や、人間的課題として掲げていたテーマについて、一定の理解と納得を得ることができてしまったことなのだろうと思う。
「人間はなぜ、どのように成長するのか」
「人間はなぜ争うのか」
「『愛する』とはどういうことなのか」
博士課程の学生として過ごした期間は、自分の専門の研究テーマも確かに大事ではあったものの、個人的にはこういう漠然とした問いについて考える方が、自分にとって重要な時間だった。今思えば、博士課程に進学したのだって、本当は自分の専門の研究テーマに取り組み続けたかったからではなく、こういう問いについて考える時間が得られる環境にいたかっただけかもしれないが、その濃密な3年間のおかげでこれらの問いについて自分なりに理論的・実践的な理解を得ることができた。
ところが、これらの大きな問いに対する自分なりの理解に到達してしまうと、その解に辿り着いた満足感と共に、急激な喪失感が襲って来た。言わば、「自分だけが楽しんできた壮大な物語」が、ある日ふと幕を閉じたような状態だ。
すると、本来は次なる別のストーリーに乗って次の人生を生きていかねばならないけれども、なかなかその新しいストーリーが見つからない日々を過ごすことになる。それが、ここ数年の私の状況である。
楽しんでいたストーリーが急に終わってしまった謎の喪失感
抜け出したいのに抜け出せないことからくる謎の焦燥感
とはいえ仕事のやる気も出ない謎の無気力感
これらが私の周りに覆いかぶさって、暗い影を落とす。
では、そういうときにはどのように過ごしていけば良いのだろうか。
よく言われるのは、「壮大な目標なんて立てる必要は無くて、目の前の小さな喜びや少しの新しい取組を楽しんでいけばよいのだ」という行動指針だ。今までの自分がなかなかできなかったことだが、それができるようになる、というチャレンジも含めて、これらを少しずつ積み重ねていくうちに、また次の物語が見つかるかもしれない。
自分が何に取り組むと、何に楽しさを感じるのか、何に喜びを感じるのか、自分の小さな感情の声に耳を傾けていくしかない。
だから、今年の当面の方針は、仕事は「目の前のこと」と理解して粛々と取り組んでいくことと、仕事以外の取組における新たな余白をつくり、そこに別の新たな取組を入れてみることだ。
それを細かく続けていくことでしか、また新たな「自分だけの物語」には出会うことができないだろう。