こだわりの多様性がおもしろい人間社会を創り出すのです。
私は人よりもこだわりが少ないタイプだと思う。
しかし、私は人よりもこだわりが強いタイプだとも思う。
これは一体どういうことかというと、それは、一般に人が生きていく上で気にしそうな部分については全くこだわりが無いが、ある特殊な物事についてのみこだわりを持っているからだ。
まず、例えば「衣食住」については全くこだわりが無い。
衣服へのこだわりはない。正直、着れれば何でもいいと思う。派手で目立つものを着るのは憚られるが、目立たないシンプルな服であれば、同じ服を数着買って、毎日その服で過ごしても良いと思っているくらいだ。
食事へのこだわりもない。まずいものはイヤだが、おいしく食べられるなら毎日同じような形式でもいいと思っているくらいだ。現にこの半年間、毎日の朝ご飯は「ふりかけをかけた玄米半合とインスタント味噌汁」と決まっているし、昼ご飯はほぼ毎日「ご飯と味噌汁におかず数点とサラダ」という定食を食べているし、夜ご飯もメニューは違えど「玄米半合に冷凍のお惣菜おかず」を食べることに決まっている。
住居へのこだわりもない。古いところはイヤだが、家賃がある程度安ければ狭くてもいい。むしろ狭い方が落ち着くくらいだ。
こう書いていて、もしかしたらそれはそれで「シンプルにしたい」「選択肢を減らしたい」というこだわりなのかもしれないと思ったけど、とりあえず置いておく。
では逆に、こだわりが強いもの、どうでもよくないものはあるだろうか?
パッと思いつくところで言うと、ものが乱雑に置かれている状態はあまり好きではないから、順番を揃えたり、向きを揃えたり、幅を揃えたりして整理整頓することにはこだわりがある。
今ブログを書いていて、全てのバックナンバーを保存してあるこのEvernoteの中身も、体系的に並んでいないと気が済まない。
そうした部分については特異的なまでのこだわりがあると思う。
でも、考えてみれば、多くの人々が少なからず一つ以上はそういう要素を持っているはずだ。何かにこだわりが無い代わりに、何かに強いこだわりを持っていたりするものだろう。
そうやって、色々なこだわりを持った人が多数存在するから、人間社会はおもしろいのだ。
個々の人たちが自分のこだわりを先鋭化すると共に、周りの人々の先鋭化されたこだわりを許容し認め合えたとき、真に多様性のある豊かな社会が実現するのかもしれない。