「書くこと」こそ「考えること」。
どこで見聞きした情報が元ネタなのかは全く覚えていないのだが、私のnote執筆用メモ集の冒頭には自分への戒めとしてこんな文言が書いてある。
「今、何が最も重要な課題だと思っているのか、それはなぜなのか」を仮説で良いから最初に書くことである。考えぬいた結果を書くのではない。書くことは思考の「過程」である。書くことで私たちは「考える」ことができる。とにかく早く書き始めろ。深さについて、具体的に6W3H(Why/What/Who/When/Where/Whom/How/How much/How often)を意識して書く。何が課題であると考えているかをきちんと言語化して、その背後にある理由も書き出す。様々な選択肢があるなら、その選択肢も全て書き出す。より詳細に課題を検討するときには、文章として長文で書くことを勧める。書くことで、自分なりの考えの間違いや解像度の低さにも気づくことができる。」
これは今後の人生においても大切な心掛けだと思ったので、メモした後にこうしていつでも目に入るところに置いてあるのである。
「考える」とはどういうことか、と考えてみたことがある。昔、とある先生が私ではない別の生徒に向かって「もうちょっと考えなさい」と言っていた光景をみたのがきっかけだ。そうやって「考えなさい」とだけ言われた人間は、「考える」ことができるようになるだろうか?ましてや、「その先生の考えてほしいように考える」ことなどもっと難しいのではないか?
これを見聞きしてから、私が誰かに何かを考えてほしいと思ったときには、少なくとも「考えるための補助材料や方法論」も合わせて伝えるように意識してはいるつもりだ。
しかしそれでも、本当の意味で「考える」には、やはりその人が自らの言葉でアウトプットするという経験を積むことが不可欠なのだ。これは、一定期間文章を書き続けてきた自分も実感として理解している。文章を書く習慣があるときとないときでは、日常的に頭を使っている絶対時間に圧倒的な差があるように思う。
この毎日noteも、決して毎回スラスラ書いているわけではない。とりあえず先に思いついた言いたいこと(仮説)をダーッと並べて書いて、その後で少し読みやすいように並べ替えたり、補足情報を加えていったりする。あまりにも短いと感じたときには、そこから少し深掘りすることもある。
脳に負荷をかけているように感じるが、しかしそれこそが「考えること」なのだと思う。
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