開放的な空間が思考をも解放する。
珍しく休日に何の予定も入らなかったので、たまには自然の中で少ししっかり目の散歩をしてみようと思い立ち、電車で1時間くらいのプチハイキングコースに1人で出掛けてきた。
これまで何度か地域の子どもたちを連れて集団で歩いたことがある場所で、コース自体には馴染みがあったが、1人で訪れたことはなかった。なぜそこを選んだかというと、私が初めてこのコースを歩いたとき、コースの終盤に美しい山々と街並みを一望できるひらけたアスファルト道があって、そこから見える景色が私の脳裏に印象深く刻まれていたからである。
最寄駅から山道に入る道まで、7年以上前の記憶を頼りに黙々と歩く。集団で歩いているとあっという間に過ぎる道も、1人で歩くと意外と遠く感じる。今日は自然感受を目的にしているので、普段の通勤時には必ずつけているイヤホンも外している。毎日何かしら聞きながら歩いているので、それがない今日はなおのこと時間がゆっくり流れているように感じる。
山道に入る道を見つけて中に入り、急勾配の道を進むとすぐに眺望ポイントが現れた。後ろを振り返ると、雲一つない快晴の中に聳える山々が見える。良い天気でよかった。
そのままさらに歩くと道が分岐している。立札を確認すると、過去に歩いたことがあるコースとは別の方向に、まだ行ったことがない小さい山があるとの表示があった。今日は子どもたちはおらず1人行動なので、一旦コースを外れてその山に向かうことにした。なるべく自分にとって新しいことをすることを習慣化するためでもあるのだ。
自然の中で1人、五感を解放して歩いていると、普段とは異なる気づきがたくさん得られる。周辺の木々や竹たちが風に揺れてざわめく音。道すがらの畑から漂う堆肥のにおい。眼下の木々の隙間から見える湖面のきらめき。子どもたちと一緒に歩くときとはまた違うポイントに集中することができる楽しみがある。
立札を頼りに山頂に着くと、先客の老夫婦が倒木に腰かけて昼食を取っていた。その目線の先には、雪がかった富士山の頭がハッキリと見える。この冬の時期は湿度が低いので、遠方の山々の輪郭までハッキリと確認できるのが良いところだ。これまで何度も同じコースを歩きにきたことがあるのに、こんなに良い眺望ポイントを見逃していたとは、なかなかもったいないことをしていたようだ。
しばらく景色を楽しんだ後、再び元のコースに戻り、記憶を頼りにひたすら歩く。ところどころで現れる眺望ポイントでは足を止めてしっかりと景色を味わうが、とはいえ普段のクセでつい早歩きになってしまう自分も同時に感じる。
そうしていよいよ、私が訪れたかったコース終盤の眺望ポイントに差し掛かった。快晴の下、遮るものなく山々と街並みを左右の広い範囲で一望できる。これが良い。
私がこういう景色を見て思うことはいつも大体決まっていて、「この街並み全て、人間が一からつくったものなんだよな、すごいな」「ここにだけでも何万、何十万という人間が生きてるんだよな、すごいな」ということだ。それがなぜかはよくわからないし、冷静によく考えるとそれは「景色」ではないのでは?とは思えてきたが、でもそういう思考が脳内に浮かんでいることは確かなのだ。
眺望を眺めつつゆっくりとアスファルト道を下りながら、私は自然と、これから3年後・5年後・10年後の自分はどうなっているだろうか、と考えていた。特にその考えがまとまるわけではないのだけど、圧倒的に開放感のある眺望がその解放的な思考のトリガーとなったのだと思う。いつもは狭い自宅や研究室でいろいろなことを考えているけれども、もっとそういう広い空間に意識的に出ていくことで、もっと広く解放的な思考をする習慣をつけることが大事そうだな、と思った。
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