AI台頭時代の生き方。

AIの発展が恐ろしいスピードで進んでいる。

先日中国系の企業から発表されたDeepSeekによるインパクトもかなり大きなものだ。専門家たちの間でもまだ評価は分かれているようだし、私がその中身について詳しく知っているわけでは全くないけれども、少なくとも、ChatGPTに匹敵するようなAIを後続の人たちが低コストで作れるようになってしまう予兆がある、ということは言えるだろう。

こういうAI業界やここ数十年のテック企業の発展を担ってきたのは、若き数学の天才たちであった。私が予想するに、彼らは天才であるがゆえにこの世界を直感的に数学的に捉えることができ、それを数学的な方法論で具現化する技術を活用することによって各プロジェクトを成功、発展させている。

そういう天才たちに我々凡人が追いつこうと思っても、それはとても無理だ。好きでAI開発に取り組んでいけるような少数の人たちを除いて、これからの我々にできることは、そのAIをうまく使わせてもらって、使い倒した上で新しい価値を生み出すことになるだろう。

このAIが普通になった社会において、どのような絶望的未来と希望的未来を描くことができるだろうか。

AIが無料で使える時代には、AIにできることの価値はどんどん下がっていく。つまり、それと全く同じことを仕事にしている人間は、誰かからお金を頂いて生活することはますます難しくなるだろう。

そうすると、本当に真剣になって考えなければならないことは、人間にしかできないこと、AIには代替できないことは何か、ということだ。

そのうちの1つとして、ある意味人間の本能的なところというか、「欲望」や「快楽」がキーワードになるかもしれないと思う。人間という生物の性質を徹底的に理解し、それが欲しがるものを届ける。ここにおいては、何らかの欲望や快楽があるはずだ。その中には、ギャンブルのような刹那的な快楽もあるだろうし、スイーツのような糖質を摂取することによる快楽もあるだろうし、音楽ライブのような大人数が一か所に集まって熱狂する快楽もあるだろう。

一方で、人間がやらなくて良いことをAIに任せることができ、人間は多くの労働から解放されるという希望的な予測もある。もし衣食住を確保するコストが下がりに下がって、多くの時間働かなくて済むことによってギリシャの哲学者的な生活を人間が送れるようになったとしたらどうなるだろうか?

皆が遊びながら暮らせる素晴らしい社会がやってくる可能性もあるが、個人的には「退屈」を感じる人間で溢れかえることになると思う。「暇と退屈の倫理学」という本の中では、人間が退屈をしのぐために取り得る(陥る)いくつかの状態が述べられていたが、そういうかりそめの状態において、人間は何を求めるのか。心から満たされる瞬間はあるのだろうか。

こういうことを本当に真剣に考えなくてはならない時代が、もう既にやってきているのだ。

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ともやの思考整理note
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