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アンソーシャル ディスタンス(コロナの中で生きていく。生の正と負の両面を持ちながら)
2004年に「蛇にピアス」で直木賞を受賞した金原ひとみさんの『アンソーシャル ディスタンス』を読んだ。
リストカット、合法ドラッグ、過食・拒食、パパ活をしてきた沙南と、無難に生きてきた幸希の物語。彼は会社から内定をもらったばかりの大学生。周囲に合わせて言葉通り無難に生きてきた。でも、自己嫌悪やペシミズムを吐露できる相手はいなかったが、沙南に対しては違った。唯一、そういったものを吐露できる相手。
そんなカップルの二人は、コロナの影響で大好きなバンドの公演中止やロックダウンで会えなくなるかもしれないという不安を抱えながら生きていく。そこで幸希が就職祝いでもらった10万円で彼女を旅行に誘う。その旅の目的が心中になり。。。
ホントに無難に生きてきた幸喜。内定先の社長からもらった本を「目次からすでにマッチョな資本主義感滲み出てたもんね」という感想には笑ってしまった。
コロナの表現も。。。
コロナはEDMのフェスでアメフト出身のガタイのいい男に肩車をさせ踊り狂う陽キャなセレブパイピ女のように、この世に敵なんて存在しないと本気で思い込んでいるかのように、向かうとこと敵なしの勢いで人々を汚染していっている。”
常にキシネンリョを持ちあわせている沙南。それが爆発したのは心中を幸喜に提案した時なんだが、「希死念慮」というwordが幸喜が主語で話される際はカタカナで、沙南が主語で話する際は漢字であるのは何か意味があるのかな?
話はズレるが、希死念慮と自殺願望って違うんですね。
疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある。
死に対する捉え方もカップルの中で異なる。沙南にとって死は絶対的なもの。幸喜にとって死は選んでもいいし選ばなくてもいい相対的なもの。こういった価値観の違う二人の会話には色々と考えさせられる部分も多い。
コロナの中で、感染リスクや死亡リスクを気にする人々がいる一方で、このようなカップルもいるんだという違った視点で捉えることができた。それはまさに金原ひとみが読者に伝えたかったものなんだろう。
自分を守る、健康に生きる、良いことをする、他人を守るという「正」の部分と、それだけでに身を任せて生きるだけでは補いきれない「負」の部分が人間にはある。時には体に悪いこと(タバコや大量の飲酒)をしたり、他人から非難を受けることをしたり、「負」の側面も持ちながら生きていくんだろう。その正と負のバランス、その定義は人によって異なる。
相手に感染させるリスクを除いた場合、自分が感染するかどうかをリスクととらえるよりも、それ以上にやりたいことがあったり、自分が感染しても良いと思いながら、やりたいことをやっていくこともある。
今回のコロナはそんな生と死、何が自分の中で大切なのかどうじゃないのかを考えさせるきっかけになった。まだ答えは見つかっていない。
▼金原さんの対談記事
「ソーシャル」という言葉はとても抽象的だし、意味するものが広いと思うんです。その言葉を聞いて想起するところが、ぼんやりしてしまう。
そういった意味で、問題のある言葉というか、ちょっと曰く付きの言葉という印象を受けますよね。
「ソーシャル」という言葉を使ってしまうと、それを守らない人が反社会的であるという感覚が刷り込まれてしまうところもあります
そうしたことを踏まえて、「アンソーシャル ディスタンス」とこの小説を名付けました。
小説って、世界は、人はこうであるべきという主張をするものというよりは、この世界を生きる時の一つの緩衝材のようなものだと思うんです。
私自身も小説を若い頃から読んできて、今を生きるための力をもらってきました。例えるなら、現実の中で息を止めていて、小説の中で息つぎをするような感覚です。
人ぞれぞれ表現の仕方は違うと思いますが、小説家にできることは、物語によって1つの視点を提示するということ。
いつか自分が死ぬということを、そして全ての人が死と隣り合わせであることを意識しながら生きることになった今、何を大切に思うかがよりクリアに見えてきているのではないでしょうか