縄文時代前後の人の動きを中心に
私自身縄文時代の初心者です。
縄文時代についてふと気になっていろいろ調べてみると、遺跡発掘の進展もさることながら、ゲノム解析により多くのことが明らかになってきたことを知りました。
その一方で、「B.C.〇千年頃」「縄文時代〇期」とあってもピンと来ないというところがありました。そこで、自分の頭の整理も兼ねて、「あらすじ」をまとめてみました。
以下の2冊を含めた十数冊の書籍、Wikipedia、YouTubeチャンネルなどを元に、諸説ある事項については取捨選択しながら、まとめました。
文化面の内容は僅かであることはご容赦ください。
「一からわかる人類と日本人の起源」 加藤長 同時代社
「日本人の祖先は縄文人だった」 長浜浩明 展転社
ゲノム解析の成果
あらすじに入る前に、ゲノム解析でどのようなことが明らかになっているかを示します。あらすじはこれらと整合的であるべきと考えるからです。
Y染色体ハプログループの分布
ハプログループとは、人類の遺伝子の系統を追跡するための分類方法です。父から息子へと受け継がれるY染色体を用いる場合は、父系の系統を追跡できます。(母系を辿るにはミトコンドリアを使用します。)
記号の意味するところは次のようです。アフリカで発生したホモ・サピエンスのY染色体の主な変化による分岐はアルファベットで表し。その後は、例えばDであれば、分岐するとD1とD2に、D1は分岐するとD1aとD1bに、D1aは分岐するとD1a1とD1a2に、というように、分岐するごとにaかb、1か2が加わっていきます。(cや3が使われることもあります。)
[D]
Wikipediaによると、チベットではD1a1aが15.2%、D1a1bが31.4%だそうで、図ではまとめてD1a1という表記になっています。D1a2aは日本周辺、D1a2bはアンダマン諸島(ミャンマー沖)に分布しているようです。
[C]
日本のCは主にC1a1で。分岐したC1a2は主にヨーロッパに分布しているので、かなり古い時期の分岐であることがわかります。モンゴルに分布するのは主にC2bで、C2aは北アメリカにも分布しているとのことです。
[O]
Oは、約4万年前にNと分岐し、東アジアから東南アジアで大きな比率を占めています。
Y染色体の遺伝子マーカー
図は、世界中から10万以上のDNAを集めてヒトの拡散を探るジェノグラフィック・プロジェクトにより得られた、遺伝子マーカーの経路です。
ハプログループは特定の系統や祖先のDNAのグループを指すのに対し、遺伝子マーカーはそのDNAの特定の位置や遺伝子座を示すものです。
M174はハプロタイプD、M130はハプロタイプCと関連しているようです。
いずれも日本周辺では南から北への大きな流れがあります。
M174は日本付近から大陸へ渡り、モンゴルからチベットへ移動しています。チベットに多いD1a1と日本周辺に多いD1a2には、日本への人類到達の4万年前より更に前の5万年前に分岐しているようなので、日本列島からチベットへの人の流れがあった訳ではなさそうです。
縄文人・弥生人と現代人の遺伝子の乖離度
遺伝子の特徴として、以下の通りです。
・現在の日本人は、縄文人と北京中国人のほぼ中間
・現在の韓国人は、現在の日本人と北京中国人のほぼ中間
・渡来系弥生人は現在の日本人とほぼ同じ(縄文人と大陸人(北京中国人)との混血か?)。縄文人とほぼ同じ遺伝子の弥生人もいる。
弥生人・古墳時代人の縄文人遺伝子の残存割合
・弥生人に縄文人の特徴は6割ほど
・古文時代人に弥生人の特徴は4割ほど
と、古墳時代の変容が大きいことがわかります。
なお、サンプルや分析対象の違いで、より縄文人の残存比率が高いという話もあります。
あらすじ
4万年前
人類(ホモ・サピエンス)の日本到達は4万年前から3万8000年前頃とされています。
流入の順番は、①朝鮮半島から、②琉球諸島から、③北方からの順と見られているようです。
朝鮮半島からと言うと「南下」したという語感がありますが、当時は氷期で海面が下がって陸地が広がっていたため、現在の東シナ海を陸路で北上し、朝鮮半島南端をかすめて、日本列島に入ることができました。ジェノグラフィック・プロジェクトが示唆する移動と整合的と言えます。
草創期(B.C.14500年~9500年)
土器の登場により、縄文時代に入ります。中国・江西省の2万年前※の土器と共に世界的にも最古の部類になります。
※2万年前の判定は、土器に付着していた炭素ではなく、洞窟内の炭素から推定されたものとのこと
鹿児島県の火山灰の下層からイネのプラントオパール(細胞に蓄積したガラス質の成分)が発見され(B.C.10000年)、何らかの形でイネが存在していたようです。
早期(B.C.9500年~5000年)
人口:2万人
朝鮮半島ではこの時代の遺跡がほとんどなく、ほぼ無人の状態だったようです。温暖な時期も増え、人々は北へ拡散したという説もあるようです。
板屋Ⅲ遺跡(島根県)でこの時期のイネのプラントオパールが検出されました。
B.C.5300年頃鬼界カルデラ(アカホヤ)大爆発があり、九州から周辺地域へ人々が避難したと考えられ、避難先として無人の朝鮮半島も含まれてもおかしくありません。大陸に渡って、長江文明の担い手になったのではないかという話もありますが、タイミングは合うものの信憑性はわかりません。
前期(B.C.5000年~3500年)・中期(B.C.3500年~2400年)
人口:11万人(前期)・26万人(中期)
温暖化が進み、現在よりも海面が2~3m高くなり、縄文海進と呼ばれます。
中期には、人口は縄文時代の中で最大となりました。
三内丸山遺跡はB.C.3900~2200年で、中期前後に1700年も続きました。
朝鮮半島は櫛目文土器時代とされ、九州北部と同一文化圏と考えられます。
人口は東日本で多く、東日本:西日本=4:1だったようです。
岡山県の彦崎貝塚?朝寝鼻貝塚?にてイネのプラントオパールが発見(B.C.4000年)され、畑作されていたと見られます。
後期(B.C.2400年~1200年)
人口:16万人
B.C.2000~1500に韓国・朝鮮人の直接の祖先が半島に流入したそうなので、まずは半島から後に言う倭人が押し出され、半島内では混血も進んだと思われますが、その割には韓国人にDのハプログループが残っていないようにも感じますが、大陸とつながっているために上書きされやすかったのかもしれません。
モースにより発見された大森貝塚は、後期から末期に当たります。
晩期(B.C.1200年~400年)
人口:8万人
冷涼な気候となり、中期から人口がかなり減っています。
九州北部の菜畑遺跡(佐賀県)・板付遺跡(福岡県)で水田跡が発見され、この地域ではB.C.1000年に稲作が行われていたことがわかります。これにより、「B.C.1000年から九州北部は弥生時代に入った」という考え方と、「縄文時代晩期には稲作が行われていた」という考え方があるようです。
弥生時代(B.C400年~.A.D.300年)
人口:59万人
魏志倭人伝その他中国正史によると、倭は以下のような状態でした。
B.C.1世紀 百余国が分立
A.D.57 奴国、後漢に朝貢
2世紀後半 倭国大乱
3世紀前半 邪馬台国が諸国を統率
朝鮮半島南部と倭(特に九州北部)は小国に分裂していたのが、朝鮮半島北部の高句麗からの圧迫もあって、徐々にまとまっていく過程にあったようです。
縄文人と弥生人とは形質がかなり異なると言われてきましたが、先に見た「弥生人・古墳時代人の縄文人遺伝子の残存割合」で、弥生人の流入による影響は4割程度で、人が入れ替わった訳ではありません。
古墳時代
人口:540万人
高句麗の広開土王の碑文には、391年に倭軍が百済・新羅を攻撃とあります。これは日本書紀の三韓征伐に対応すると一般に見られています。
大和政権は512年に任那4県を百済に割譲するなど、徐々に半島での権益を失っていきます。これに対しては、継体天皇への移譲に伴う混乱で、半島を顧みれなくなっていたという見解もあります。
5~6世紀は渡来人が多くやって来ました。百済からの渡来人が多かったイメージでしたが、Wikipediaによると『弘仁6(815)年に編纂された「新撰姓氏録」に記載される1182氏のうち、326が諸蕃すなわち渡来系氏族であり、全体の3割を占めている。諸蕃の出身地は漢が163、百済が104、高麗(高句麗)が41、新羅が9、任那が9であった。』とあります。
大陸の混乱の時代でもあり、大陸からも難民の大量流入があったようです。
先に見た「縄文人遺伝子の残存割合」で従来の遺伝子割合が下がったことと整合的です。
渡来人の人数については、1000年ほどの間に数万〜10数万という説のほか、100万人という説もあるようです。
以上の枠組みを基に、今後、縄文時代などの話をよりよく理解して頂けたら嬉しく思います。