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「平成たぬき合戦ぽんぽこ」で高畑勲が環境保護以外で伝えようとしていたこと

タイトルに「平成」とついていることで令和の今はより前時代感があり懐かしい感じのする「平成たぬき合戦ぽんぽこ」

子どもの頃に金曜ロードショーで見て以来初めて全編見たが当時とは受け取り方が大きく変わった。コミカルな中に自然を大切にしよう的なメッセージの作品か思っていたが、単なる環境保護を訴えるという話ではなくもっと一貫してとても現実的で悲しい話だった。同じジブリ作品でも宮崎駿と高畑勲は全く違う価値観なのがおもしろい。

全く記憶になかった冒頭

最初はいきなりリアルなたぬきの絵とともにわらべ歌が始まる。全く記憶になかった。金曜ロードショーで開始ぴったりから一秒も見逃さずに見ることはなかったからだろう。

たぬきさんたぬきさん遊ぼじゃないか
今ご飯の真っ最中
おかずは何?
梅干しこうこ
一切れちょうだい
あらあんたちょっとがっつきね

という歌詞。日本の音階を”独特だな”と感じるようになった自分も少し悲しい。

この歌はたぬきと人間の会話になっているわけだが、この物語全体のストーリーが表されている。たぬきに「一切れちょうだい」と森を奪いにくる人間、「がっつきね」と人間をなんて欲深い生き物なんだと思うたぬき。そして人間の本当の脅威に気づかずにのんきなたぬきたちは全てを失う。

といったところだ。

あくまでも現実的でドキュメンタリーな作品

人間のいないところでは二足歩行でコミカルな姿に変身するたぬき。変化の術で人間に化けるし一見ファンタジー感が全開なのだが高畑監督はこの映画をドキュメンタリーとして語っている。

実際のところたぬきたちは変化の術を駆使して人間に対抗するものの全く人間にかなわない。ファンタジーの力によって悪(人間)を倒す!というストーリーが成立していないのだ。

「たぬきに化ける能力があってもせいぜいあのくらいのことしかできないだろう」というリアルさからつくられている。

映画なのに、機動隊に特攻した権太たちはあっけなく撃ち殺されてゴミのように死体が山積みにされる。警官がたぬきの死体を放り投げる瞬間などはとてもリアルで、いままでマンガ風だったたぬきたちが突然4足歩行のたぬきで描かれる。

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妖怪行列はジブリそのもの

妖怪行列のシーンはスタジオジブリそのものを表しているという見方もある。トトロやキキ、ポルコがでているのはそのためだということ。

自分たちが命がけで真剣に世の中を変えようと何かを訴えかけたところで人々は「すごーい、おもしろいねー」と反応するだけで世の中が変わることなんてない。

ということ。

実際たぬきたちは人間の考えを変えてやろうと一族の力を結集し、隠神刑部は力を使い果たし息絶えてしまう。しかし人間は開発をやめるどころか「おもしろかったねー」で終わってしまう。

この作品で言いたいこと

たぬきたちは必死に抵抗するものの結局は何もなかったように開発は進められ全てを奪われてしまい、最後にはビルの夜景でエンディングを迎えるというのは徹底したファンタジー批判だと感じる。

人間たちを改心させて森が戻ってたぬきたちも幸せ、というラストなら観客はすっきりするわけなのだがそれは監督から真っ向から否定されている。

この作品は追い詰められたたぬきの末路をあくまでたぬきの側に立って冷静な客観的に追い、敗北後の混乱その先の現状報告を観客に示すことが最も伝えたいメッセージだったのだそうだ。

高畑監督は

「ファンタジーは“現実で生きるイメージトレーニング”にならない」

と語っている。

「現状報告」と隠喩

開発を阻止しようと運動していくたぬきたちの社会で現代の人間社会を描写しているようにも読み取れる。

「平成狸合戦ぽんぽこ/解説図録」/叶 精二

にあったおもしろい分析をご紹介。

この作品は狸社会そのものの描写が基軸であり、何より観客が狸に象徴される野生動物の惨状に思いをめぐらすことが主たる制作意図である。しかし一方で惨状に至る過程の物語展開に、狸を通じた現代社会を生きる人間の思想的・政治的現状報告が込められているとも解釈できる。それは、ラスト数分の以下のシーンに最も顕著であった。
多少の矛盾と無理を繕いながらも突き進んでいった「開発阻止」「生活圏防衛」の理想が最大の決戦を経て破れ、ある者は敗北感に打ちひしがれ、ある者は闘争継続を訴える。
指導者は金による闘争収集へのめり込み、より弱い者たちは新興宗教へ、武闘派は過激な玉砕戦法へとそれぞれ突き進み狸たちはバラバラになってしまう。ずっと本質的に孕んでいた矛盾が蓋を外されて噴出したと言うべきか。「開発阻止」「生活圏防衛」の気持ちは一つでも行動はバラバラである。そして、ついに再び一つにまとまることはない。
残されたのは新興宗教にも武闘派にも所属しなかった、まさに平均的な「化けられる狸」と「化けられない狸」である。「化けられる狸」は人間社会に同化して、ある者は中流的な家庭を築いてドリンク剤漬けの通勤労働の日々を送っている。「化けられない狸」は都会の片隅で残飯をあさり、ある者は車にひかれて呆気なく死に、ある者は人口エセ自然のゴルフ場の一角で昔ながらの生活を営んでいる。まさに、多様煩雑な社会に疲弊しながら、それでもしぶとく「どっこい生きている」のである。
ラストにせり上がるイルミネーションショットは「火垂るの墓」を想起させるが「火垂る」のそれが現代を抽象的に象徴するに止まっていたのに比して「ぽんぽこ」のそれはそこに生きている人間たち一人一人、狸たち一匹一匹が思い浮かぶほどの現実的な生活臭に裏打ちされている。この一連の展開には、実に数え切れないほどの隠喩が伺える。
第一に、この展開は狸たちになぞらえた戦後日本のあらゆる抵抗運動の歴史そのものである。狸たちが右往左往しながらやがて意志一致を見て闘争を展開していく様、混迷して分解していく様は、まさに労使紛争、差別糾弾闘争、民族解放闘争など、様々な抵抗運動の典型的な模写である。
三井・三池争議、砂川闘争、三里塚闘争など多くの史実の影響が伺える。日本の社会主義運動史、日本階級闘争そのものの隠喩と受け取れなくもない。60年代―70年代の高揚、80年代の分散、90年代の混迷という戦後50年の歴史そのものが凝縮されているのである。
 地道で平和的な変革運動も、実力武装闘争も、新興宗教も、社会の底辺で従順に生きる生き様も、片隅の農薬漬けの自然環境で昔ながらの生態系で生き抜くことも、どれもを「有り得べき必然」として提示しているだけである。
あえて言うなら、すべてをひっくるめて認めた上で、「どっこい生きていく」姿勢をとっているのである。それは「立場」というほど生易しいものでなく、それしか選択の余地が有り得ず、逼迫した惨状を受け入れて生きていくしかないという厳しい現状認識でもある。
第二に、「狸社会からの告発」という視点によって、人間社会を相対化している。
 物語同様の自然環境破壊が人間の住む土地に対して行なわれたならば、事前の移転補償などで大問題となり、あるいは裁判闘争の一つも起きようというものだ。
ましてや、「事前通告なし」の着工などもっての他である。しかし、狸が住んでいたからといって何の支障も来さない。あくまで人間本位の人間社会の傲慢さ。これには、「弱い立場の者を封じ込める」という人間社会内部の差別思想と、動植物の生態系の軽視自然環境との共存・共生の観点の欠落、という二つの皮肉が込められているのではないか。
そしてその二つはいずれも人間の精神を物資消費中心の貧困なものと成す要因となり、生活環境の悪化をもたらし長期的には結局「自分で自分の首を絞める」結果を招いていくのである。
 どちらも現代社会において権力者から社会の末端に至るまで無数に行われてきたことであるし、現在も進行中の現実である。
 第三に、安易な懐古主義・復古主義との決別である。
 ラスト近く、狸たちによって開発以前の田園風景や野山が再現される。人々は狸と一体となって、「懐かしい」「あの頃は良かった」と共感する。攻撃的な「妖怪大作戦」とは打って変わって、初めて人間と狸の平和的交感が叶う情況が出来上がる。
しかしここでも狸と人間はそこに埋没し切ってしまうことは許されない。狸と人間の間で対等な和解が安易に成立することはない。過去はあくまで過去であり、現実に眼を瞑って一足飛びに戻ることは出来ないのである。
 狸と人間が共存出来た「過去が良かった」という事実を忘れないことは大切だが、戻れない現実を引きずってなお「どう生きるか」がもっと大切なのである。あくまで、現状を直視した未来志向のために、過去の反芻が重要なのだ。この構造的に打ち出された主張は、映像文化ならではの素晴らしい隠喩である。
 第四に現代に生きる人間たちの荒廃した感性と価値観を問い直す姿勢である。狸たちが決死の妖怪大作戦を試みても、昔の風景を幻出させて見せても、物語に外在的に登場する人間たちには大きな意識変革が起こることはない。
驚き叫び失神したりはしていたが、それが脅しだけを目的とした平和的手段であるから、尚更生活に及ぼす大きな影響はない。あるいは、子供たちもまた、あくまで現実を前提として、ヴァーチャル・リァリティよろしくゲーム感覚で受け止めていただけなのかも知れない。そして、おそらくこの超現実も、マスコミと同様二、三日学校現場と井戸端会議で話題にされた後、忘れさられてしまうのだろう。
 権太率いる特攻狸軍団を殲滅した機動隊たちには、何の感慨もない。職務を遂行して、工事の障害を取り除いただけである。テレビレポーターたちは、芸能取材やUFO探索と同じ水準で狸へも突撃取材を慣行する。それはひとえに視聴率のためである。
 ラストの「幻の田舎」は、狸たちの懐かしさに駆られた衝動によって消え去るが、子供たちの「なんか、餌あげたかったのにぃ」の一言により、一層現実に引き戻される。
子供たちにとって、狸はペット同様の愛玩動物か、動物園の檻の中にいる生きた観賞物なのである。それは現代人の小動物に対する接し方の典型である。
 これらの諸シーンは、物語上かなり一種不快なギャップ、違和感を感じる箇所ではないか。なぜなら観客は狸社会の視点で映画に参加している以上、狸の論理とかけ離れた人間の自己都合むき出しの冷淡な反応に、ある種の失望を感じるからである。ところが、同種の現象に際しての大多数の日本人の現実的反応は、まさにこの通りなのではないか。
高畑監督は、こうした意図的な客観シーンの挿入によって、観客を改めて狸の視点へ強烈に転倒させることに成功しているのである。
 高畑監督は、あえて狸社会と人間社会を繋ぐ理解者や同情者を登場させたりはしない。仮に狸と人間の中間に位置する人間が主人公として登場していたら「良心があれば動物と理解出来る」という類の実に陳腐な教条的作品になっていたことであろう。観客は良心的人間に感情移入することで、狸社会の現実からの逃避を許され自分勝手な都合を免罪出来るからである。必要なのは人間の良心一般を信じることでなく、あくまで狸社会全体への理解と感情移入なのである。
 けれども高畑監督は没個性的で感動の薄い人間たちに対しても、説教じみた否定論を展開したりはしていない。現実をキチンと認めて、描き出すことに止めているだけである。手遅れとは言え、一応は狸に配慮した住宅を作ったりもするのである。実はこの生の日本人の現実を描くことこそが、そのまま感性を鋭く問う内容を孕んでいると思える。良心に訴える百の有り得ない感動を、狸視線からの一の客観が重さにおいて越えるのである。「狸からはこんな風に見えるのか」「これが自分たちの客観的な姿なのか」と。まさに実践的な価値観の転倒である。
 最後に、狸にこめられた日本人総体の体質の暗喩である。制作にあたって「今何故狸なのか」という質問が腐るほど繰返されたが、高畑監督は「シリトリの延長」と茶化してみせただけである。しかし、諸々のインタビューでは「現代日本人を象徴している」旨も語っている。これは映画を観れば一目瞭然だが、狸と人間がラストで見事な融合を遂げている。
結局のところ、どっちもしんどい世の中を共に生きていかねばならない地上動物なのである。日本人があくせくと身銭を稼いで何とか生きているように、狸も同じ水準で「頑張っている」のである。「一挙的な解決方法はないけれど、よりよい環境を目指して共存していくしかないではないか」という突き抜けた楽観主義の獲得。それによって、混迷の時代をおかしくも悲しく乗り切って行こうという、実は当たり前の結論(現状認識)を、狸を通じて再認識・再刻印して見せたのではないだろうか。
そこには、狸と共に、狸のように、時代に向き合って、しぶとくもたくましく生きていこうという高畑氏自身の生き様が込められていたのではないだろうか。それは、宮崎監督が漫画版「風の谷のナウシカ」で追求し続けた問題意識にも深く通じている。
 両氏が追求して来た「時代をえぐり取る」あるいは「照らし出す」という作風は、ついにここまで来たのである。
 以上、本作を現状報告という観点から五点にわたって分析して見た。それらは、いずれも現実の社会政治情況を背負いながら生きていく日本人として真摯に向き合わなければならない課題であると思う。その意味において、「実践の時代(記者会見での談話)」という高畑監督の発言と符号の一致を見た気がするのである。

引用元

映画評論と解説

今まで映画の解説や評論を見たことはなかったが解説を見てみると本当におもしろく、その映画を何度も繰り返し見てみようという気になる。よく考えれば当たり前だ。

クラシック音楽だって一回だけ聴いて終わりなどということはまずない。理解したいと思ったら何度も聴いて楽譜を見て分析して、作曲者のことも勉強して。

そういった楽しみ方を知っているからクラシック音楽を楽しめているわけだから、映画もそうやって見ていけばいいのだと思う。

岡田斗司夫さんのジブリの解説はとてもおもしろいのでおすすめ。


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齋藤友亨 Tomoyuki Saito
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