『光あるうちに光の中を歩め』トルストイ
要約
キリスト教の男とそうでない男の対話を描く。ユリウス(非キリスト教)は物質的に裕福になるが満たされた気がしない。最終的に、物質的に裕福になったところでそれは永続するものではないし、物質に執着し不幸になることを悟り、物質的なものを捨てキリスト教へ改心する。
キリスト教徒の価値観は以下の通り。審判の日に神のもとへ到達するためには、労働と隣人愛による善をなすことが必要である。幸福は隣人への愛の中にある。この価値観から、ものを所有でなく共用したり、パンを貧者にあげたりする。その結果物質的には貧乏になる。
これに対してユリウスは、キリスト教徒は物質主義を否定しながらも物質主義に依存していると反論。キリスト教徒は、結局のところ既存制度にフリーライドしているだけだ。市場でパンを購入したり、新入キリスト教徒からの寄付(俗世で貯めた富)に頼っている。
感想
幸福はどこにあるのだろうか。キリスト教徒は他人への愛に自己の幸福を見出し、非キリスト教徒(ここでは物質主義者)は富(名声等の無形資産も含まれる)にそれを求める。ユリウスは物質的幸福を享受するものの、これは不安定で、かつその追及に終わりがない。疲れた彼はキリスト教徒となり、貧しいながらに幸福な人生の終わりを迎えた。
キリスト教徒の世界では、皆が平等に貧しいがゆえに競争がなく連帯感が保たれ、さらに死後に天国に行くためという行動に対する正しさが提示されている。
どちらかだけが正しいわけではない。他人のために善をなすことで幸福を感じることは確かにあるし、お金や名声を得て尊敬されるということも幸福につながる。分類をするなら、前者は主観的幸福で、後者は客観的幸福であるようなきがする。自分のしたことを他者がどう感じるかは未知数である以上、他社に何かをして喜んでいるのは自分だけかもしれない。ただ、キリスト教の場合は、他教徒からの承認がもらえるため独りよがりではなくなるのだろう。これに対して、富や権力は客観的な幸福ということができる。権力や名声は贈り物や友達の数などで客観視されるだろう。問題は、この幸福をある程度持つと、これを相殺する働きが出てくること。金を持てば持つほど今以上欲しくなったり、足を引っ張ろうとする敵が出てくる。このような幸福を小さくする方向に働く要因が出てくることがこの幸福にかんする問題であろう。
この2つの幸福が共存できる場所がどこかにあるはずなので、これを探せたらなと思う。足るを知るというか。
ちなみに、プロローグがめちゃめちゃ面白かった。物質的に裕福な人たちが集まり、キリスト教の教えに従い富を捨てて平等になろうと点で合意するも、実際に行動を起こす者はいない話。
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