清盛の死の迎え方から伝わるメッセージ―大河ドラマ平清盛50回単発感想

今回の記事では大河ドラマ平清盛50回「遊びをせんとや生まれけむ」を取り上げます。

今作の主人公・平清盛の死とその後が描かれた今回は、何よりも捻った脚本構成が特徴的でしょう。脚本家の手のひらに転がされるとはこういった感触なのだろうな…と思った視聴者は多かったのではないでしょうか。

清盛が死を迎えた後、西行は平家一門へ、平家滅亡の後には頼朝の元を訪れ清盛の遺言を伝えました。
これらでのポイントは、どちらも西行の姿が遺言を伝える場に置いて、清盛の姿に変化している所というのは見ての通りかと思います。

このような演出からは清盛がどう死を迎えたのか、さらにはこの大河ドラマが持つ時代的意義―本作品は2012年に放送された―を読み取らざるを得ません。今回はその点について述べたいと思います。


最終回の清盛

高熱に倒れるも精神は西行の元へ向かった清盛は、西行から己の死が近づいているのではと宣告されました。それを聞いた清盛は、「今死ぬという事は皆の志を捨てるに同じぞ」と近づく死を拒もうとしていました。

そんな清盛に西行は言います。先に死んでいった者達も何等かの無念のうちに死を迎えたのだろうと。でも、話はそれだけではありません。

「しかし皆に等しく訪れるのが死というもの。それゆえにこそ、人は命尽きるまで存分に生きねばなりませぬ。そして、お手前ほどそれを体現したお方を私は他に知りませぬ」 

西行は死の淵にいる清盛(の精神)へ、清盛の生涯への「承認」の言葉を徹底して与えます。

「うれしい時、楽しい時も、つらい時、苦しい時さえも、いついかなる時も子どもが遊ぶようにお手前は生きた。生き尽くした。お手前の生きてこられた平清盛の一生、まばゆいばかりの美しさにござりまする」

西行が一門に清盛の遺言を伝える場面において壮絶な最期を迎えたのが嘘だったかのような清盛の姿が現れていたという演出は、西行の言葉を受けた清盛は、心持ちとしては穏やかに死を迎えることができたことを表しているのではないでしょうか。

このような清盛を考える上で振り返りたい台詞があります。27回「宿命の対決」で、敗れた義朝がそれでも清盛に言い放ったあの一言です。

源氏は滅びぬ。我が身は滅びても源氏の魂は断じて滅びぬ! 
清盛…また会おう

あの時、義朝は清盛に髭切の太刀を残して立ち去っていきました。そんな義朝の姿は頼朝から「まことの武士がまやかしの武士に負けた」と、武士としての死と捉えられる程でした。尾張での自害を聞いたとしても、清盛や頼朝にとって義朝の死はここで決定づけられたものだったのでしょう。
そうすると義朝が清盛にこう言い残したのは、義朝の遺言に準ずる意味を持つものになります。その遺言とは「自分には自分の後に続く者がいる」との言葉でした。

近づく死の時に信じたのは、自分の後に続く人物の存在。後に頼朝が源氏の棟梁として挙兵した時、清盛は義朝があの時言った言葉の意味を身に染みて感じていたはずです。あの頼朝が、義朝の子が立ち上がった。頼朝は義朝の「自分の後に続く人物」になった。では己にはそんな存在はいるのだろうか。倅はいてもいないだろう。少し前まで自分は孤独の闇の中にあったのだから…頼朝挙兵の知らせを聞いた清盛が真っ先に宋剣にしがみついたのは、孤独な自分が信じられるのが宋剣を通じて強くなった己自身だけだったことを表しているかのようでした。

しかし、この言葉はそれだけで終わらなかったことが最終回で明らかになりました。清盛が平家一門、そして頼朝に対して遺言を残したことであの時の義朝のように「自分には自分の後に続く者がいる」という精神が備わりました。それも直前まで「先に亡くなった者達の思いを背負っているがため、自分が死んだらそれらも共に死ぬ」と思っていた清盛に、です。

自分の死が近づいた時に、自分の精神を受け継ぐ者がいると信じられるか否か。この描写を思えば義朝が語った精神、さらに遡れば父・忠盛も通ったこの道を、清盛も信じられるかどうかがドラマの最後の焦点になっていたと思います。


そもそも遺言を残すというのは自分が死んだ後にも自分と関係性が認められる人物がいると信じているからこそ行われる動作です。これからも生きていく者に対して、自分亡き後の動向を託す言葉が遺言です。相手がいなければ、遺言ではなくただの孤独な喚きになってしまいます。
そうすると絶命直前の「きっと我が墓前に頼朝が首を供えよ」とは、「自分が死ねば先に亡くなった者も思いも共に死ぬ」という意識と「自分が死んでも後に続く者がいる」という意識が同居している言葉だったのかもしれません。自分が死んだら先に亡くなった者達の思いが捨てられるに同じだ、でも自分は死の淵にいる、それなら自分の周りの者に自分の思いを託すしかないのでは、と。
西行の承認の言葉を受ける一方でこのような最期が描かれたというのは、清盛の精神と実際の清盛との間に確執があったように思います。

孤独の闇から脱したものの、清盛一人の手ではどうしようもない事態にまで状況が悪化していた時に近づき迎えた死。最期の最期も清盛は「嵐」と結びついていました。

しかし、西行との対話の中で生まれたであろう清盛の言葉がありました。

平家一門1人1人への言葉。これは一門に対しての「我が身が滅びても残る一門が平家を盛り立てる」という思いが込められているのは明らかですね。この思いは頼朝へも「我が倅どもがきっとそなたを討ち取る。そしてそなたが首をきっとわが墓前に供えようぞ」と述べて伝えています。
そして頼朝へ「まことの武士とはいかなるものか、見せてみよ」。
清盛は自分の身が滅びても武士の世は切り開かれると信じていました。

ここで孤独だった清盛にただの言葉ではない、まごうことなき遺言が生まれました。
西行の言葉がなければ清盛は頼朝へはおろか、一門一人一人に対してのこうした遺言も成しえなかったかもしれません。なぜなら西行の言葉は清盛に対して、波乱に満ちた人生を送った清盛に安らぎをもたらすものだったのですから。

そんな清盛の遺言を、一門や頼朝はどう受け取ったのか。それぞれの場面を思い出して見てほしい。

精一杯生きていたら、その生を終えた時もその人自身の心持ちはきっと安らか。なぜなら自分の生を認める者や自分のこれまでの生を受けて生きていく者を把握している、という理由を見い出せるから。
その人は、近づいて来た自分の死を拒みたくなるような世の中ではないと分かっていたのだから…


大河ドラマ平清盛と2012年

舞子「子どもが遊ぶ時は、時の経つのも忘れて目の前の事に無心になっておりまする。生きるとは本当はそういう事にござりましょう。うれしい時も楽しい時も、また、つらい時や苦しい時さえも。子どもが遊ぶみたいに夢中になって生きたい」

第1回「ふたりの父」より

大河ドラマ平清盛は2012年に放送されました。
2011年3月11日。突然の未曾有の大災害で奪われた多くの命。あんな残酷に死を迎えることがあり得る。次は自分達かもしれないという不安に襲われる。あの日を境にいつか自分自身にも訪れる「死」への恐怖が呼び起こされた人が多かったのではと思います。
それを思えば生きることに疑問が出てきます。誰にでもいつか死は訪れる。どんな風に生きても虚しくはないか。このような葛藤は人間が生きる中で立ち会うものだと思いますが、放送当時、この大河ドラマは(製作過程でどこまで意識していたかは分かりませんが)掲げた作品コンセプトと当時の空気感が共鳴してより強く揺さぶりをかけていたと思います。「夢中になって生きる」とは猶更虚しいのではないか。夢中になって生きる中で清盛は孤独になっていたではないか、と。

大切な人の死に立ち会った時、どうすればそれでも前を向いて生きていけるのか。
自分にもいつか訪れる死を自覚した時、どうすればその時まで夢中になって生きることができるのか。
この作品の清盛の死の描かれ方は、これからも生きていく悩める者達へ生きていく上での心持を提示したのではないでしょうか。

「大切な人の死を受けたあなたへ、大丈夫。あなたの大切な人は1人で死んでいったのではない。自分の生きざまを認めてくれる人、自分の生きざまを見てこれからも生きていく人がいると信じていた。それって誰のことかわかる? あなたのことだよ、あなたも含まれているんだよ」

「『死』への恐怖を強く感じたあなたへ、大丈夫。あなたはきっと孤独の中で死ぬんじゃない。死が近づいた時に周りを見渡すと自分の生きざまを認めてくれる人、自分の生きざまを見てこれからも生きていく人がいるはず。だからやがて訪れる死まで、精一杯生きて」

最終回の清盛の死の迎え方からはドラマを見終える視聴者に対し、生きていくことに対する温かいメッセージが送られていると感じます。

いつか迎える死を恐れず、自分の力の限り生きることを諦めないでほしい。
これまでと、これからの人生全てに自信を持ってほしい。

大河ドラマ平清盛にはそんな願いが込められている作品だと思います。


おわりにー私達は、安心して生きていける

命尽きるその時まで、夢中になって生きる。
その結果は孤独だけじゃない。ないはずだ。
だからこれからも、私達は安心して生きていける。

限りある命だからこそ、精一杯生きるべきだ。そんなメッセージを訴える作品は様々あれど、このドラマはもう一歩進んでそう信じて生きていける理由までも提示しました。

死をもって、生を伝える。不思議と生きていく自信が出てくる最終回でした。

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