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ディズニーふしぎの国のアリスでアリスがディズニープリンセスでない理由+内容を考察

注:)ここでの現実へと戻ると言った文は「アリスが夢から覚める」と言う意味です。また一部私自身の考察や見解にはオカルト的描写に感じる場合があります。また、このような解釈でも問題ない、と言う方にご理解いただいてお読みいただけると幸いです。


ディズニークラシック作品の一つでお馴染み不思議の国のアリス。皆さんも一度は絵本やVHSで見たりしたのではないのでしょうか?
実はこの主人公アリス、女性であり主人公でありながらディズニープリンセスではありません。ではなぜプリンセスではないのかご存知ですか?お察しの方は気づいていると思いますが今回はそれについて書きたいと思います。

簡単なあらすじ

1951年発表のウォルトディズニー公開のふしぎの国のアリス。ディズニーでは「不思議」を「ふしぎ」と表記しています。製作はもちろんディズニー兄弟。
日本では1953年に公開されていますが、当時はほとんど一般人はみれるような作品ではありませんでした。(当時の映画や劇場代は少し高かったため)

手塚治虫や今の宮崎駿がとてもディズニークラシック作品を評価しているものが動画などにも上がっています。手塚治虫さんはアリス自体ではありませんが50回以上見たと言っているそうです。

アリスが昼下がりに姉と一緒に川辺の花畑のある野原で歴史の勉強をしていたのですが、アリス自身はすっかり退屈。
姉の目を盗み飼い猫のダイナと一緒に川のほとりでくつろいでいた。アリスが白白うさぎを発見して「チョッキを着たしろうさぎなんて」ととぼけた様子で見ると本当にそこにいてびっくりする。
白うさぎは何か急いでいる様子で突然駆け出し気になったアリスは追うことに。そのまま迷いこんだ地下空間でアリスは様々な出来事に遭遇する。

アリス自体は年齢は7歳、もしくは8歳と言われています。なぜプリンセスと呼ばれないのかお話しします。

❶王子様がいない

すでにご存知かと思いますが、アリスには主人公でありながらボーイフレンド的立ち位置になる人物がいません。理由はもちろんのこと内容にそのような描写がないこと、ディズニー特有の大きな男が私たちを救ってくれたというような話に展開しないストーリーであるため。そもそもディズニープリンセスという言葉が確立する前このストーリーはプリンセス的な物語として展開していませんでした。しかしウォルト自身の着想は1930年代当時から変わっていません。

❷上級階級民、上級貴族民

ディズニーではプリンセスは比較的下級、王様の妃などになる役職が主人公になることはありませんでした。前作のシンデレラは商人の娘で妻の連れ子と4人で暮らしていて上級ではありませんでした。また原作、ルイスキャロルもそのような描写では描きませんでした。今回のアリスは著名人の娘さん、お嬢さん的立ち位置で農民でもなければお姫様でもない、しかし最終的にお姫様にもならない展開という事です。

❸回想物語、パラレルワールド式で現実とは違う

ディズニープリンセスでは主人公などのさまざまな登場人物が夢の話をします。といっても必ず夢の話はディズニーででてきます。でない作品はひとつたりともありません。アリスの場合は理想と私の国、と表現して語っている部分があります。「動物が人間と同じようにしゃべり…」
また私の国と言って
「ない物があってあるはずの物がないのよ」
「これはこうって決まりは、はじめからないのよ」
とダイナに話しています。

それがこの描写。その後、その私の国に入り込んでいくように物語が展開します。ここで察する方もいるかもしれませんが、最終的にアリスは姉とのティータイムに間に合わないと白うさぎと同様の理由で急いで元の世界に戻ります。この見解にはいろいろな考察がありますが、自分はこう考えます。

(ここから❸の一部独自解釈が入りますのでご容赦ください)

好奇心は災いの元とアリスが発言してそこから地下世界へと展開しますが、最終的にアリスが地上に戻る際も「戻らなくては」と好奇心から現実の世界へと戻りティータイムに間に合って物語は完結します。

ですが、好奇心により、自分を見失わないように現実世界へと戻り、時に好奇心は、冒険への扉を開いて夢を広げることができる、作っていくことができる、というディズニーなりの夢が完成することはない、想像力が完成することはないというウォルトディズニーのモットー的描写がここでも展開しているのでは無いかと個人的な推測をしています。

またなんでもない日、ばんざい!とアリスの世界でもティータイムの時に帽子屋たちが話しています。これも「何気ないなんでもない日から夢を発見して冒険することは大切なんだ、なんでもない日も夢があれば楽しいひとときなんだ」と誇張して自分は推理していました。また一部のウォルトのインタビューでも似たような供述文があります。
あくまで個人的な憶測や妄想に過ぎませんので悪しからず。

現実世界でないパラレルワールド展開の作品である、少しディズニーでは珍しい物語であることが現実とは違い、プリンセスではないのではとも言われています。

ハッピーエンドでもなければバッドエンドでもない、みた人に委ねる中立的な終わり方
もちろんの通り、終わり方はとてもディズニーとは違う中立的で曖昧な終わり方をします。ディズニー作品の多くは王子様といつまでも幸せに暮らしましたとさ、と言って本を閉じられて映画フィルムが終了します。(実際のところ最近のアニメーション映画では本を閉じるという伝統的なシーンが減ってきていますがこれは配給社への広告の宣伝方法が変わったためです。それまではRKO社の配給だったため名残がありましたが最近では薄れてきているようです)

最後は姉とのティータイムに間に合わせるために急いで今までの経緯を戻すように現実世界へと帰ります。

その後は間に合うというハッピーエンドな終わり方をして終了して大多数はハッピーエンドな終わり方と認識していましたが、考察次第ではハッピーでもないという考えを持つ人も多くいるそうです。

バッドエンドに考える人はごく少数派ですが、首をはねろといわれながら現実世界に戻る描写をバッド的展開に解釈する人もいるそうです。

つまり、現在進行形でありかつ中立的な終わり方をするアリスは見た人そのものによる解釈によって委ねられるというまさに、「好奇心、探究心」を持たせた終了の仕方をしたのではと考えています。ある意味ではこれを探究心の暴走による暴力や行きすぎた行動をしては行けないという自戒の意味も込められているのではないかという解釈をする方もいらっしゃいます。

(首をはねろとハートの女王が言い最後まで展開をして行くシーン)


このようにディズニープリンセスとして定義される一般的な物語展開とは違い、アリス独特の世界観を展開している作品はプリンセスとしては該当しないと言うのが概ねの結果となりました。

つまりそもそもプリンセスシリーズとは話の展開が根本的に違うと言うことなのです。

一部の意見では「幼すぎる」と言う意見もありますが、幼すぎるが故の条件下であれば、同い年のアナと雪の女王のアナも同等の年代なので妥当とは言えにくいと言えます。(子供時代の回想シーンほか)

以上の4つが主なディズニープリンセスにアリスが該当しない理由であるとおもいます。

アリスの物語の展開について本気で考えてみたいと思います

アリスについての翻訳についてまとめられたPDFサイトがあります。

http://www.hp-alice.com/lcj/ronbun/article2010.pdf

このPDFには翻訳の違いを初め、過去に発売された日本語吹き替え版や字幕版についての修正、変更点について書かれています。例えば、裁判時、女王を卑下するようにアリスが発言するシーンが描写があります。

初期VHSからの翻訳ではこちらの動画はおそらくポニー社配給のVHSですが、PDFサイトでは翻訳に以下のような資料を提示しています。

と言ったような修正が加えられています。この修正には日本語表現の修正ということでディズニーとは別枠で離脱した日本会社が修正していることになりますが、日本での修正は必ずウォルトディズニーカンパニー本社からの校閲が入ります。

やまねずみ、イカれ帽子屋などは全てドーマウス、マッドハッターなど優しい表現になっています。これには青少年の法改正などが関係していて暴言や誹謗に対する対策として導入された可能性があります。簡単に言えば幼児発育の影響を懸念しているということになります。
私はこの意見には賛成せず、
「なぜ元の翻訳を使わないんだ?これじゃ内容が変化してオリジナリティがない」
という派のひとです。
Madという単語も修正されて若干行き過ぎている意訳は同感です。
行きすぎた翻訳は最近でも進んでいていてかなり修正が加えらディズニーでは前からダークファンタジー要素を含むため過激な描写や過激な発言をすることもよくありましたが最近のディズニー映画作品ではもっぱらそのような表現は無くなりました。これはディズニーが子供向きの映画として制作していたPIXARスタジオとつながったためと言われています。
これの例にピーターパンなどが挙げられます。

このように修正が含まれて若干数でありながらも内容に変化している可能性があるのも直近15年ほどで発売されたアリスシリーズに含まれているのです。

最後のシーンで歌われる夢の国への発言について。

アリスが夢から覚めた後夢の国へ冒険する描写を踏まえた上で歌われています。夢の国に行くことではなく、夢の国へ自分の思考が誘うという難しい表現をしているのではないかと見解しました。理由は、
「アリスの不思議の国へ」
と歌われた詩はそのみている人自身の夢の国に行くのではなく、アリスの夢の国=(つまり)不思議の国へ誘っている解釈での表現をしているのではないかと思いました。

また以下のように論文や議題として算出されたものもあります。(ここからは専門的知識も含まれます)

うさぎとアリスの会話の一部を使い意味を分断する、切断して考えると言う新しい集合の命題を提示しているものもあります、これは原作に限る話でありますのでここでは深入りしないようにします。

では原作とディズニー作品オリジナルとの違いを少しみたいと思います。

このような原作、ルイスキャロルの不思議の国のアリスは独特かつ特殊な物語で難しい内容でありながらも楽しい内容にもなる変幻自在でありながら考えさせられる作品でもあり、簡単に言えば答えがない、又は定義が多すぎるようなとても一回では解釈しきれないような小説です。先程のから派生して小西弘信さんが書いた文では小説第一章、うさぎの穴、つまりディズニー版でいう最初のシーンで出てくるダイナーとの別れの描写です。以下のような見解がされています。

写真中ほど、「Aliceは、この穴…煙に巻くのである」の部分にある文章、
「猫はコウモリを食べるのか?」「こうもりは猫を食べるのか?」と自分の思考の中で錯綜するシーンが原作にはあります。一方でディズニー作品ではそう言った描写は含まれておらず、

このように、比較的理解のしやすい簡単な描写をしています。
上のを読んでもらうと自分の途中の方に書いた解釈と小西さんの解釈が似ていることがわかると思います。
例に、「彼女が現実の世界から非現実の世界へと移行するような感覚」というのはディズニー版でも重要なシーンでもあるのが読んでわかります。

ディズニー作品ではポップでミュージカルに沿って子供でも理解しやすいような簡潔でわかりやすいものとしてヒットしたディズニーふしぎの国のアリス。
一方で大人が真面目に大学やその後の研究としても十分に史料となる原作不思議の国のアリスと鏡の国のアリス、そのシリーズ。
アリスシリーズにはディズニー作品でも短編アニメーション制作としてアリスシリーズは収録されています。

いかに解釈するのか研究しても良い小説版、親子や子供と楽しく観ることに注力を注いでいるディズニーふしぎの国のアリス。どちらも素晴らしき今に語り継がれる作品として今後も重要な作品になると思います。


まとめ

ディズニー作品でヒロイン主人公でありながらプリンセスとして位置づいていないアリスのその理由と内容に関する知識について少しだけ触れてみました。他の資料にも大学論文など十分に研究する材料として使えるものが多数あります。大人の方はディズニープリンセスを見た上でこの資料に挑戦してみるのも楽しいかもしれません。
最後にスクリーンショットのオフショットと参考文献を掲載して終了したいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

参考文献

不思議の国のアリス日本語ではわからない解釈
https://plaza.rakuten.co.jp/o3podou/diary/200805070000/

不思議の国のアリスにおける談話分析
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/h-bunkyo/file/12374/20190411183305/global1%28konishi%29.pdf

Alice in Wonderland翻訳、意訳
http://www.n-seiryo.ac.jp/~nonaka/seminar/l09033/page2.htm

不思議の国の言葉遊び
http://3memo.net/practical/alice.html

aliceのパロディと文法
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/301/301891210.pdf

ふしぎの国のアリス翻訳に関する資料
http://www.hp-alice.com/lcj/ronbun/article2010.pdf

ふしぎの国のアリス(URL化無効化されました)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ふしぎの国のアリス

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