松崎にて 前編
ぽっかりと時間があいた。数ヶ月取り掛かっていた仕事が終わり、次の仕事が始まるまでの隙間時間が1週間。
旅に出たい。
ずっと抑えていたその欲望が、むくむくと湧き上がる。旅「のようなこと」はしていた。車や電車で一、二時間程度の移動をし、観光地を巡る。仕事だが、内容としてはそれも旅と言ってもいいのだろう。
だけど、そうじゃない。そうじゃないんだ。
何も考えずに、ただ乗り物に揺られ、気の向くままに歩き、出会った風景を楽しむ。理性でなく、感性で享受する。それが私にとっての「旅」だ。
数ヶ月ひっきりなしに仕事や雑事があり、頭を使うことばかりだった。それが終わりやっと、左脳を使わず「旅」をする余裕ができたのだ。折しも時は初秋。旅には絶好の季節だ。
この空白の1週間を丸々充てたいところだが、前後の予定や疲労回復を考えると、一泊二日から二泊三日がいいところ。となると、居住地・静岡東部の近場で伊豆がいいだろうか。その中でも観光地は避けたい。情報が多くない、賑やかじゃないところがいい。
そうだ、あれに乗ろう!見かけるたびに飛び乗りたい衝動を抑えた、三島から西伊豆直行の特急バス!普段の旅は電車派だけれど、路線バスの旅もいい。しかも特急だからハイデッカー仕様だし、旅気分は否応にも上がる。
そうだ、松崎行こう!以前仕事で訪れて、静かないいところだと感じ、ゆっくり過ごしたい町だと思っていた。それに、泊まってみたい宿もある。
ああ、いいねえ。ぼんやり海を眺めて、西伊豆名物の夕陽を見よう。そして久しぶりに波と戯れて、のんびりビールを飲もう。
この時期なら人も少なそうだし、ぴったりじゃないか。
そうと決めれば善は急げ。宿を予約し(なんというタイミング、ちょうどクーポンが出ていて安くなった!)、バスの時刻表や料金なども確認。
ふと思い出して、気学の吉方位を確認。すごいじゃん、ばっちり吉方位だもう行くしかないね。
物事がスムーズに進む時は、ゴーサイン。
三島駅南口。見慣れた風景だが、今日はいつもと違うのだ。ここから旅に出るんだ!
バス乗車券は2日間のフリーパスにした。ある程度の行程は考えているけれど、気が向いてどこか別のところに行きたくなっても好きに移動できる。往復するだけで元が取れるくらいの金額なので、使わない手はない。
窓口が休みで紙のチケットが入手できなかったが、窓口の張り紙からデジタルチケットが購入できて感心した。
定刻少し前に、バスがロータリーに入る。ついに乗れるのだ。鼻息荒く乗り込む。
隣のバス乗り場に停まっている河口湖行きとは違って、乗客はちらほら。やはり観光地としてはマイナーな西伊豆、だがそこがいい。のんびりするのに混雑は不要だ。
午後二時十五分。定刻になり、走り出すバス。普段乗るバスとは目線が全然違う。いつもの街並みを、いつもと違う目線で見る非日常。
さっそく、プシュッと缶ビールを開ける。私の旅は、何をおいてもまず酒が相棒である。今回も乗車前に買い込み、しっかり保冷バッグとコップも用意していたのだ。
ああ、解放感。
ぐびぐびと飲んでいたら、あっという間に1缶空いてしまった。500缶にすればよかったか。
本当に何も考えないでいい時間は久しぶりだ。普段は、意識して「考えない」ことに集中しないと、余計なことばかり考えてしまう。流れていく風景が環境映像のようで、程よい揺れと相まって脳をとろんとさせる。
一人で電車やバスに乗っている時間は、私にとっては瞑想に近いかもしれない。ぼんやりと目に映る景色は、阿頼耶識。
最初のバス停・伊豆長岡に停まり、ふっと意識が戻る。まだ、たった三十分。
ここからしばらくは山の風景。深い緑の中に、ちらほらと気も早く色づき始めた葉、そして黄金色の田圃。中伊豆は稲の刈り入れが始まっている。ふと、棚田になっているところが多いことに気づく。これも目線が高いからだろうか。
土肥からは、待望の海景色だ。この青が見えるとテンションが上がってしまうのは、海から遠いところで生まれ育ったからなのかといつも思う。
気分が高揚しているせいか、ここからはあっという間に終点・松崎。予定より十分ほど遅れての到着。最後の降車は私一人。
午後四時半前。陽は翳ってきているけれど、残暑と海の水蒸気、それから温泉の地温もあるのか、熱気と湿度がものすごい。じわりと汗が滲む。
喉が渇いて、すぐ近くのコンビニに寄る。小さな町ではいつどこで買えるかわからないから、この後のために各種酒も買っておく。
まずは海へと歩き出すと、少し行ったところでもう堤防が見える。
上がれるところから浜を覗き込むと、思ったより波立った海。SUPをしている人たちはいるけれど、波打ち際で足を浸すには少し荒い。
時間の余裕的にもいま海に入るのは諦め、宿へ向かう。
とはいえ少しでも水面を眺めていたくて、川沿いの道を選ぶ。
気水域は船の停泊場になっていて、漁船が並んでいる。大きな船に見えたが、水面がだいぶ上がっていて見える面積が広いからだと気づく。近づいてみると、岸壁の高さギリギリの潮位。地面と水面が近い。
ところどころに残るなまこ壁の塀や蔵を眺めながら歩く。夕方なのに、まだまだ蒸し暑く、空気がまとわりつくようだ。立秋もだいぶ過ぎたというのに、夏の名残りが居座っている。
そうして本日の宿、「長八の宿 山光荘」に到着。門構えからして一目で旧家とわかるそこは、本当に趣があり、古民家好きとしてはたまらない。
門をくぐる。玄関には低い屏風に竹の背負い籠など、鄙の風情。旧い建物あるあるで引き戸の滑りが悪く、声をかけると女将さんらしき高齢のご婦人が出てきてくれた。
土間から上がればロビーには囲炉裏。使い込まれて鈍く光る木の床。なんちゃってではない本物感に、すでに感嘆のため息。
さっそく部屋に案内していただくと、なんとも懐かしいような空間。床の間にはきちんと掛け軸、野の草の室礼。広縁に籐の椅子、窓の向こうに和の庭。昭和レトロと一言で言うにはもったいない。
暑かったでしょうと冷たい麦茶が用意されていて、心遣いがありがたい。
麦茶をいただきながら、ほうーっと一息つく。
こちらに泊まりたかったのは、以前に訪れた時に見かけた佇まいがとても良かったことと、長八の鏝絵があるということ、それから私が昔好きだったつげ義春の漫画に登場した場所だという理由があった。
そんな文化的価値のある空間に泊まれるなんて、なかなかない。
そして来てみて、本当によかった。まだ入館して数分しか経っていないのに、そう思えたのは、歴史ある建物の力なのか。とても落ち着ける。
素泊まりだし、今日は他のお客さんも2人ほどということだし、静かにくつろげそうだ。
夕陽を見にいくことを考えるとのんびりしている時間はないが、さっと汗を流したい。
温泉は源泉かけ流しで二十四時間入れるとのことなので、さっそく浴室に向かう。蔵のような作りで、天窓があり陽が差し込んで開放感がある。
お湯は触ってみたらとても熱い。一番湯ということもあるのかもしれないが、余計汗をかきそうなくらいだ。とはいえシャワーだけもなんだか勿体無いし、加水して軽く湯船に浸かり、カラスの行水。この辺りでは珍しい芒硝泉とのことだが、ゆっくりお湯を堪能するのは戻ってきてからだ。
海まで徒歩五分ほどではあるが、陽が落ちるのは早い。素早く支度をし、海辺へと急ぐ。
いよいよこの旅のメインイベント「夕陽を眺めながら海辺でビール」だ。
見上げると、もう西のほうがピンクに染まってきている。
大潮の夕まずめ。堤防で釣り糸を垂れる人を横目に、夕陽がよく見えるポイントを探す。
停泊場近くで、奇岩の向こうに紅い太陽を発見!雲が多く、まだ隠れているけど、これなら沈む前にその姿を拝めそう。間に合ってよかった!
船のロープを巻く杭がちょうど良いサイズ感で、椅子がわりに腰掛ける。
まずは乾杯だ。この旅に、松崎の地に、夕陽に。
開けたビールはまだ冷たい。風呂上がりの体に染み渡る。宿の部屋に冷蔵庫がなかったから、保冷バッグがとても役に立った。
波音が大きい。
今夜は満月で、その上、月と地球が近づくスーパームーンだというから本当に「満ちた」海だ。
少し大きな波が来たら、岸壁を越えて足元まで来そうなくらいざぶんざぶんと海面が揺れている。地球の表面張力ギリギリなんじゃないかと考えて、少しドキドキする。
海が少しずつ赤く染まる。波で侵食されたのだろう奇岩から連なる山は、影が濃くなってコントラストが強くなっていく。
すうーっと姿を現す太陽。とても大きくて、夕陽だというのに明るく海と山を照らし出す。
山が海が美しすぎる。って種田山頭火だったか。特に伊豆で詠んだ句じゃないしゆかりの地でもないけど、なんとなく思い出した。こころ疲れてなくても、美しいものは美しい。
いや疲れてるのかな…旅に出たいというのは、日常から離れたいということでもある。
日本酒を用意していたら山頭火ぽかったなあ、などと思いながら、少しぬるくなったビールを飲る。奇しくも茜色と名付けられた銘柄。
水平線ではなく不思議な色彩の雲の間にあっという間に沈んでいく夕陽。堪能する間もない。
すごい、と思っている間に終わってしまった。もっと見ていたかったな…。余韻に浸りながら、少し浜辺を歩く。
マジックアワーの空に、夕陽の代わりのように防波堤の灯台が赤く光る。
さてビールも飲み終わり、ここで次を開けるには海辺は暗い。晩酌をどうしようかと、街をぶらつく。これも旅の楽しみ、歩いてみてその日飲みたい店を見つけること。
何店かマップで目星をつけていたけど、平日なので休みも多い。
飾り窓に骨董と思しき酒瓶が並ぶ、「居酒屋」の赤提灯を見つける。骨董居酒屋とある。
うん、今日はここがいいな。いい意味で古ぼけた感じがすごく好きだ。今回は、美味しいものというより雰囲気重視でいこう。
開店は18時半からとあり、まだ三十分ほど時間がある。開店待ちがてら、この辺りの街並みをひと回りしてみることにする。
商店街のお店はもうほとんど閉まっていて、果たして街歩きの意味はあるのだろうかとも思うが、夜の探検も楽しいものだ。ましてほとんど知らない街。
あえて明るい国道方面には出ずに、街灯も多くはない薄ぼんやりとした路地を歩く。言うほど暗くはないが、明るくもない。人けもない。
それでも面白いものはあるもので、くつろいでいる地域猫たち、骨董屋さん、壁の落書き、蔵を模した個人宅、聞いたことのない鳥の声。興味を惹くものはいくつも見つけた。
だがそれでも二十分もすれば元の場所へ戻ってきてしまった。時間を潰せるような場所は近くでは思いつかない。
足湯はすぐそばにあるが…
もう夜だというのになみなみと張られたままのお湯を触ってみると、ここもかけ流しなのだろうか、やはりだいぶ熱い。足湯には入らず、そのまま腰掛けて手持ち無沙汰な時間を過ごす。
そうして十八時半ジャスト。
半開きの戸を開け、声をかける。店主がカウンターの向こうから現れ、入店できるか確認すると「うち、エアコンないけどいい?それでよければ」と。戸が半開きの理由がわかった。
店内は所狭しと骨董品やさまざまなものが並んでいて、居酒屋というより近所の物好きなおじさんの家のよう。
カウンターに座ると、飲み物どうしますか、と店で出せるものの説明をしてくれる。最初はビールで、と言うと、缶だけどいい?と。瓶の回収になかなか来てくれないので缶だそう。ますます家飲み感が強いが、グラスは細めのフルートタイプで缶もボトルクーラー的にステンレスジョッキに入れてくれた。
店主もマイビールを開け、せっかくなので乾杯。店主も飲みながらやっている居酒屋は好きだ。
つまみはおまかせで出てくるタイプのようで、最初に出てきたのは、カツオの酒盗が乗った冷奴と煮卵。カツオってところが西伊豆らしい。塩辛さが豆腐で中和されてちょうどいい塩梅。これは家でもやろう。
「観光の方?」という問いかけから会話が始まる。一人で飲みに没頭するのもいいが、こういうところで地元の方から聞く話も旅ならではだと思う。
店主はなんと御年八十二歳とのこと。矍鑠としていて滑舌も良いし、とても驚いた。亡き父とほぼ同じ年齢と思うと、お元気で何よりとなんだか嬉しい。店は趣味みたいなもんですよ、と笑う。
お店を始めた経緯、骨董のあれこれ(さっき見かけた骨董屋さんもこちらの姉妹店だった)、また石好きということなど、今度は日本酒をいただきながら話が弾む。
と、他のお客さんが「やってますか?」と。入店し、皆で乾杯。やはり観光の方で、昨日の夜着いたけれどお店が開いていなくて困ったとのこと。
少し話をし、時間を見ると八時半。まだ酔うほど飲んではいないから物足りないが、宿の門限もあるし、ワンオペのお店で複数人対応も大変だろうしと、ぼちぼち退店することに。
明日、骨董の方のお店も伺う約束をして店を出た。
外は少し涼しくなったけれど、まだ生ぬるい空気。
腹ごなしに、飲む前は通らなかった道を歩いてみる。変わらず人けはない。松崎町は、静岡県で一番人口が少ない町だそう。
さっきお店で聞いた話を思い出す。
地元の方はほとんど来ないそうで、住む人からすれば寂れた小さな町で、若い人もいないし飲みに出るような活気もないと。確かに、松崎に来てから学生以外の若者を見かけていない。
旅行客だから鄙びた風情がいいと思うのであって、住んでいたらそうも言っていられないことは、福島の田舎にある実家付近の過疎化ぶりを見ていてもわかる。
なんだか寂しい話だ。落ち着いたいい街なのになあ。
満月だけど、残念ながら月は雲の向こう。スーパームーンの大きな月は見られない。
宿に戻り、まずは温泉。今度はゆっくり入る。だいぶ加水したが、やっぱり熱い。源泉が近いのだろうか。だけどいいお湯だな、芒硝泉てあんまり入ったことないけど、なんというかミネラル感が強い。結晶化した温泉成分がいろんなところに付着している。
風呂上がり、自販機でビールを買いながら、フリースペース(ここにも囲炉裏!)に展示されている資料を眺める。長八関連のものや、つげ義春からの年賀状、氏の漫画が載っているガロ。
ロビーには長八の小作品に、ここがモデルとなった宿が出てくる漫画も置いてあった。私がそれを読んだのはいつ頃だっただろうか、十代から二十代にかけての若い頃だったはず。そのころは、まさかここに泊まりにくることがあるなんて考えもしなかった。
そういえばつげ義春は、福島のそれも実家近くの温泉に縁があって資料館か何かあるんだったなと思い出し、なんだか嬉しい。氏もかなり放浪癖があって、全国様々な場所に旅している親近感。
さて、部屋でビール。籐椅子が落ち着く。バスの路線図とマップを広げて、明日はどうしようか考える。
下田経由で東伊豆まで出てもう一泊もいいかなと思っていたけど、そういう気分でもない。やはりここは西伊豆途中下車の旅で、仁科や堂ヶ島で海を堪能するとか、時間が許せば黄金崎でまた夕陽を見るのもいいかな、などと考える。
昼間に買った酒は温くなっていたが、やっつけで飲む。湿度で疲れたか、普段の就寝時間より早めに眠気がやってきて、布団に入った。
(後編に続く)