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『神は自分の側にいた』というヤバさについて

7月13日米国トランプ前米国大統領が銃撃された。負傷しつつも無事だったことに安堵した。

キリスト教右派と呼ばれる人々はこの事件を機に支持を強めたという。「銃撃を受けながらも致命傷を免れたことについて(中略)『神から祝福された』候補との考えを強めており、選挙戦で宗教的な崇拝を奨励する動きが一段と強まっている」(ロイター)。トランプ氏自身も「神の力で回避した」とSNSに投稿。その後の共和党大会で開会の祈りをしたキリスト教福音主義者のフランクリン・グラハム牧師(ビリー・グラハム牧師の息子)は「神が彼を救った」と述べた。さらに大統領候補受託演説では「(撃たれたが)直後に私は安全だと思った。なぜなら神が私の側についていてくれたからだ」と述べた。支持者は「『神が選んだ人物だ』(中略)『弾丸は数ミリの差で命中しなかった。神はトランプ氏の守護者だ』と強調」している(朝日新聞デジタル)。

「神が私の側にいてくれた」とトランプ氏は語る。「神のおかげで助かった」ということは自由だ。「たまたまですやん」と言ってあげたい気もするが。だがトランプ氏は助かったがこの銃撃では一名が死亡、二人が重体となっている。トランプ氏を守った神はこの三人を放置したことになる。トランプ氏の「側に」いた神は、彼を支持するために駆けつけた支援者の「側に」はおられなかったのか。さらに射殺された二十歳の容疑者を神はどう見ておられたのか。宗教者はこの問いに向き合うべきだと思う。

「無事だった」ことを神の加護だと吹聴することはどうかと思う。それは「この宗教に入ると救われる」「信じた人は救われる」と言った瞬間に「では入会しなかった人は、入会できなかった人はどうなる」と問われるのと同じだ。私は「どっちかだけの側にいる偏狭な神」は信用しない。善も悪もないと言っているわけではない。神が悪を肯定されるとは思わない。しかし悪が悪として裁かれるのは「赦された罪人」として悔い改めつつ謙虚に生きるため。トランプ氏にはその感覚がないように思う。

そもそも神のなされることは「不可解」だ。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」とイエスは言う(マタイ福音書5章)。「なんで?」と言いたい。相当解り難い。だから人は「答えの無い問い」を抱え神の前に生きるしかない。「弾が当たらなかったから神は俺の味方だ」などと簡単に言ってはいけない。繰り返すがあなたの支援者は死んでいるのだから。

安易に「神が側におられた」と解ったようなことを言うのではなく「なぜ、私のような罪人が生き、彼は死んだのか」という「答えの無い問い」に謙虚に向き合うべきだ。神を都合よく持ち出すとヤバいことになる。この勢いで今後トランプ氏の発言が神のご託宣にならないかも心配だ。かつての大日本帝国が「わが国は神国」と神を騙り、人々を戦争に駆り立て、教会も「宗教報国」とそれに乗ったように。

「神は私の側におられた」と語ることの恐ろしさに宗教者は自戒しつつ警鐘を鳴らすべきだ。そして「どちらか」ではなく「すべてのアメリカ人」に神のご加護を祈るのだと思う。


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奥田知志
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