臭いと出会い―おいそれとは「新しい生活様式」とはいかない僕と抱樸と
コロナ状況の中、テレワークをはじめ、ある意味「苦肉の策」として選び取った「手法」が「新しい生活様式」として定着しつつある。私の場合も、あの忙しかった日々は過去となり、ここ数か月は自宅にこもり、やれネット会議だ、ネット講演会だ、さらにネット取材だと「新しい生活様式」に半ば強制的に移行させられている。私が「アナログな古い人間」なのだろう。正直違和感は拭えない。
そもそもそんなに素早く「新しく」は成れない。ネット会議が終わる。「退出」というボタンを押す。目の前の人はいなくなり、僕はそのまま椅子に残される。「退出」などしていないのだが。そして、すぐさま次のネット会議が始まる。極めて効率化した会議システムによって、従来のダラダラした会議は短時間で終わるようになった。よかったかも知れないが、僕には実に窮屈に感じる。そこには「オン」しかない。「オフ」が欲しい。「無駄」というか、「遊び」が欲しいのだ。あああ、それと会議終了後の「オフ」も無くなった。これも寂しい。これまでは、二時間の会議の後、三時間飲んでいるということもしばしばで、この一見「どうでもよい」と思われる時間が僕には結構重要だったと今頃気づく。
ネットで取材を受ける。PCに映しだされる僕は胸から上だけ。取材の途中「僕が今ズボンをはいていないのをご存知ないでしょう」と冗談をかます。それが事実だとしても何ら支障はない。見えないところは無いのと同じだからだ。
これまで具体的、肉体的に出会ってきた僕にとって、このコミュニケーションに慣れるには、相当時間がかかると思われる。それは「慣れない」ということのみならず、このコミュニケーションに対する「疑念」が払しょくされないからだ。果たして僕は、この画面の人と出会っていると言えるのか。それに確信が持てないのだ。
ホームレス支援の現場は「臭い」に満ちていた。長らくお風呂に入れなかった人、なかには「しかぶっている人」(北九州の方言でおもらしを言う)もいた。酒の臭い、汗の臭いが折り重なって「野宿臭」となる。道を行くと「野宿臭」がどこからともなくする。「いる。近くにおられる」と勘づき、捜すと暗闇にたたずむ人を発見する。ブルーシートのテント小屋の中で亡くなった人。しばらく発見されなかったので腐敗が進む。人が亡くなると凄まじい臭いとなる。一度それを嗅ぐと、数か月、数年、臭いは記憶となって残り続ける。そうやって僕らは、出会い、その出会いに対する「責任」を自らに課してきた。そんな僕らにとって、ネットに対する最も大きな違和感は「臭いが無い」ということかも知れない。出会った気になれない。そうなると「出会った責任」という、伴走型支援において最も重要な原則が薄れていく。
人、それも臭い付きの人と出会いたいのはやまやまだが、濃厚接触できないこのコロナの時代をどうやって共に生きていくか、どうやって出会っていくか。答えを見出すには、相当の時間が必要だ。残念ながら、僕、および抱樸は、おいそれと「新しい生活様式」にはいけないように思う。
人は、お金や物だけでは立ち上がれない。生きる意味を与えてくれるのは他者との出会いなのだ。ステイホームで孤立に拍車がかかるコロナ時代を生きるためには、人との出会い、それも臭いがする人との出会いをどうやって確保するのかは依然として大問題だと思う。
さて、今週も「ネット配信」の時間が近づいた。違和感を持ちつつ、何とか「新しい」にしがみつこうとする僕がいる。
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