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故人を悼むということ―内面の営みということに


 故人を悼むということは、極めて「個人の内面に関わる事柄」である。人の死との向き合いには「差異」がある。例えばフランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチが言う「死の人称」である。一つは「一人称の死」、つまり「私の死」である。自分自身のことであって、誰に代わってもらうことが出来ない死である。二つの目は「二人称の死」、つまり「あなたの死」である。親や配偶者、子ども、親友、知人、恩人など、自分にとって大切な人の死を指す。「二人称の死」は関係が深い分、自分の一部がもぎ取られたような痛みと悲しみを伴うゆえに、「一人称の死」と繋がっている。愛する人を無くしたその痛みが自分のいのちに関わる事態となる。それはその繋がりが深くて太いからだ。そして「三人称の死」。「彼、もしくは彼らの死」である。つまり「他人の死」。日々報じられる事件や事故で亡くなった人がこれに当たる。よほど造像力を働かせない限り、私達はそれを受け流す。これは「冷たい」という事ではない。すべての死が「一人称」や「二人称」の重みをもって迫ってくるならば、私達は耐えられなくなるからだ。だから「死の人称」に従ってその受け止め方を変える。これは正直な人としての現実である。
 
 故人を悼むことにおいて大切なのは「私との関係」で、それは実態的でなくてはならない。ただ、それは「実際に会ったことがあるか」という単純なことではない。例えば「あの歌手には、いつも励まされた」と言うファンがその人の死を重く受け止め泣くことはある。「あの人の歌に何度も救われた」という個人の思いが裏付けとして存在するからだ。
 
 先日の安倍晋三さんの死は多くの人に衝撃を与えた。非業の死ということもあり、惜しむ声が多い。報道では「民主主義への挑戦」だとか、「言論弾圧テロ」だと報じられたし、政治家たちはそのように語っていたが、どうもそうではない。カルト宗教の被害を受けた家族がその宗教グループを応援していた安倍元首相を襲撃した事件である。数々の被害を出しているカルト宗教のグループを放置するどころか応援をしていたことは問題だし、被害家族が誰の助けも受けられず破綻し、追い詰められていったことは社会の問題だと思う。とはいえ、どんな理由があっても殺害はダメであるが。

 いずれにせよ、安倍さんの死を悼む個人がいても良い。その人にとって安倍さんの存在が大きく「二人称の死」として受け取っているのなら当然のことだ。マスコミが「英雄扱い」した結果、それまではあまり考えも、感じてもいなかった人が「安倍さんのおかげ」と言い出しているようにも感じるので、それはそれで大丈夫かと思うが、個人としてその人の死を悼むことは、その人の自由である。
 
 しかし、それを「国葬」という形で押し付けるのは間違っている。僕にとって安倍さんの死は「三人称の死」。「国葬だから」と強制的に「二人称の死にしろと」言われても無理なのだ。その人を悼むというのは、その人との関わりの中で必然的に起こる「心の営み」である。また「安倍さんの功績かすれば当然国葬」とか、逆に「秘密保護法、安保法制、森本学園、加計学園、桜を見る会など、そんな人は国葬に値しない」というのにも違和感がある。功績があるとか、無いとかが問題ではない。故人を悼むという極めて「個人の内面」に関わる事柄に国は関与してはならないということが言いたいのだ。
 
 私は、個人として、関係の中で故人の死を悼んできた。それは「私とあなた」という個人の関係において「私の心が悼んでいる」という極めて内面の事柄であった。この最も大切な「心の営み」に国が踏み込んではいけない。ましてや誰かの死を利用して人の気持ちを操作するなど絶対にあってはいけない。それは、家族と知人、つまり、個々人に任せるべきだ。
改めてはっきり言うが、僕の「心の営み」なのだ。
放っておいていただきたいと思う。 


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奥田知志
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