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しんどい思いをした人が謝る社会          ―コロナ体験記

 オミクロン株の爆発的感染は今も広がり続けている。もはや誰が、いつ感染してもおかしくない。第五波のデルタ株の時よりも感染情報を身近に聴くなあと思っていたら、自分たちが「濃厚接触者」になっていた。次男が感染したのだ。当然、次男は家庭内で隔離。九十一歳の母親を含む家族三人が「自宅待機」となった。
 

 全員が家から出られない。次男はよく耐え12日間を狭い部屋で過ごした。トイレに行くにも、洗面所に行くにも消毒液を片手に抱え、申し訳なさそうにトイレに向かう息子の姿が痛々しい。
当初在庫一掃処分とばかり溜まっていた食材を食べていた。でも数日で底をついた。買い物に行くわけにはいかない。どうしようかと思っていたら「オヤジ買い物行ってやろうか」と電話が入った。現在教会のシェールター滞在中のK子からだった。ほどなく食料が届けられた。ありがたかった。
 

 だから深く考えた。もしひとりぼっちなら、もし誰にも心配されず「陽性」、あるいは「自宅待機」となったならどれだけ心細かっただろうと。第一食糧はどうするかと。コロナ感染の重症化によっても人は死ぬが、つながりがないとやはりいのちに関わることが良く解った。おかげ様で息子はほぼ無症状のまま期間を終え私たちも解放された。

 ネットなどを見ていると職場復帰の際に「皆さまにご迷惑をおかけして申し訳ありません」というメッセージを見る。そう言いたい気持ちはわかるし、人間関係がよりスムーズになるような気もする。

 だが、僕はそういうのは良くないと思う。しんどい思いをした人が謝る社会はどうなのか。助けてもらったのは事実だ。僕らはKに助けられた。だったら復帰第一声は「ありがとう」で良い。にも拘わらず「申し訳ない」と言わねばならない空気がこの社会にはある。これはどこからくるのか。
その背景には「人に迷惑をかけてはいけない」という自己責任論社会の重圧があると思う。「自分のことは自分でやれ」「人に頼るな」「甘えるな」「迷惑をかけるな」。そんなことばかりお互い言いってきた。結果「助けてと言えない社会」となってしまった。

 「自助」が大切なことは言うまでもない。これは僕の人生だから自分自身が頑張ることは当たり前。だが、「自助」は周囲の助けを否定することではない。いや「自助」を頑張るために私の周りに多くの友が与えられているのだ。買い物を助けてもらうのは、苦しく不安な自宅待機を自分自身が乗り切る(自助)ために必要なのだ。それは順番であり、お互い様の出来事だ。当然の出来事であるべきなのだ。これまで随分と周りに助けてもらってきたK子だ。私たちも助けてきた。そして今回はK子が私たちを助けてくれる。それでいい。相見互いお互いさま、そんな基本を私たちは忘れてしまった。
 

 旧約聖書創世記。「人はひとりじゃダメだ」と神は言い、もう一人を「助ける者」として創られた。人間の創造である。なあ~んだ、最初から迷惑かけあえって言われているではないか。ならば「ごめんなさい」じゃなくて「ありがとう」でいきたい。その中で人は「人」であること、つまり「助け合う存在」であることを知る。私のささやかコロナ体験記である。

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