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こころの鍵―沢知恵は泣ける、怒れる、うれしくなる

実に四年ぶりに沢知恵さんをお招きして「荒生田塾」が開催できた。2014年に東八幡キリスト教会は創立60年を記念して新礼拝堂の建築を行った。それを機に「荒生田塾」が始まった。「荒生田」は教会が立つ地名。荒生田塾のテーマは「人は何のために生きるのか」。これまで様々な講師をお招きしこの事について語っていただいた。
その中で一貫して語り、いや歌っていただいているのが沢知恵さんである。久しぶりのコンサートは、これまでにない緊張感、あるいは切迫感を感じるものだった。
 この3年間、私たちは様々なものを失ってきた。コロナ禍は、私たちから命を奪い、仕事を奪い、つながりを奪った。困窮者支援の現場は混乱を極めた。追い打ちをかけるように各地で自然災害が頻発した。繰り返される豪雨と水害で多くの人が家と生活を失った。そして戦争。各地で紛争がありつつも、かろうじて「世界大戦」を回避してきたこの世界だったが、今やロシア・ウクライナ戦争は、世界中を巻き込み実質「第三次世界大戦」の様相となっている。私たちは平和を失った。
 しかし、この3年間で私たちが失った最大のものは「こころ」だったように思う。コロナ当初、私たちは先の見えないパンデミック(感染爆発)に怖れおののき、効き目も分からぬマスクに頼らざるを得なかった。有名人が無くなりコロナが誰も特別扱いしない「恐ろしく平等な存在である」ことを知りビビった。しかし、月日が経つにつれ、それが日常化する中で私たちの「こころ」は鈍化していった。命を無くすことも、仕事を無くすことも「コロナだから」のひとことで済ませるようになった。
 異常気象は「異常」であるゆえに衝撃であったが今や常態化している。毎年、毎回繰り返される災害に「またか」とやり過ごすようになった。
 戦争当初は、日々伝えられる悲惨なニュースに世界は驚愕した。泣き叫ぶ子どもの映像に震え、怒り、涙した。しかし、一年が過ぎた頃から、私たちは「悲惨」に慣れ始めた。ニュースもその頃には「新しさ(ニュース)」を失い、私たちは「ああ、まだやってんのか」と「冷静に」、文字通り「冷ややかに、静まりかえって」受け止めるようになった。
 一喜一憂し、涙する。そんな「こころ」を私たちは失ったのだ。
 そんな私たちの所に沢知恵がやってきた。暑苦しいほどの情熱をもって。しつこいほどの押し付けをもって。そして何よりも深い「こころ」をもって。沢知恵は鍵である。こころの扉を開ける鍵。この人の歌を聞いているとこころが動き出す。ざわめきたち、しんどくなる。沢知恵は泣ける。沢知恵は怒りを呼び覚ます。沢知恵は鬱陶しい。しかし、この無視できない歌うたいの「うた」に触れなければ、その鍵が無ければ僕はこころも震えず、涙も出ない人間に成り下がる。人はこころの存在なのだ。こころが震えなければ「ひと」で在ること自体が問われる。
 コンサートが終わり、ささやかな打ち上げの後、沢知恵はライ療養所である大島青松園の礼拝を行うために高松に向かった。お互い忙しい。今回も暑苦しかったが、いいひと時をいただいた。関田さん(共通の恩師)も喜んでいることだろう。
 来年もこころを揺さぶりにおいでいただきたい。
 

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奥田知志
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