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助けてと言えない四つの理由、それでも希望はある


「なぜ、もっと早く相談しなかったの」と言いたい場面がたくさんあった。
しかし、困難が深刻化するほど人は「助けて」と言えない。
早めに相談に来ない人、それが困窮者だ。なぜ彼らは「助けて」と言えないのか。


第一に「知らない」ということ。どこに行けば相談できるのか。どんな制度があるのか。自分の権利。知らないと使えない。
学校では「困った時に仕える制度」は教えてくれないが、若者たちは容赦なく格差の荒海に放り出されている。
「冷たいビールが飲みたい」と思う人はどういう人か。それは「冷蔵庫があるということを知っている人」。冷蔵庫を知らない人は、温(ぬる)いビールを出されても不思議に思わない。しかし、冷蔵庫の存在を知る人は怒る。知らない人は求めない。

第二に「孤立」がある。人は他者を通じて自分を知る。
生きる意味も他者との出会いの中で知るのだ。しかし、「他者性」を失うと自分が分からなくなる。路上の若者は誰も崖っぷちに立ってたが一様に「大丈夫」と言っていた。プライドの問題ではない。
彼らは自分が危機にあることに気づいていなかったのだ。隣りに座り話し込む。
だんだんと自分の状態に気づき始め、遂には「助けてもらえますか」と言い出す。
孤立は自己認知機能を低下させる。

第三に「常態化した自己責任論」がある。
路上の若者たちは「助けてと言っても『何を甘えているんだ。努力が足りない。自業自得だ』と言われるだけだ」と言っていた。
本来、自己責任と社会の責任は対概念だ。社会が助けることで自己責任が取れる。家の無い人に「ハローワークに行け」と言っても仕方ない。
しかし、社会が住宅を支援することで、「ハローワーク」に行くことが可能となる。社会が責任を果たすことで自己責任が取れるのだ。
「自己責任論」は社会が責任を取らない言い訳になっている。
これでは自己責任は果たせない。

第四に「生きようと思えない」こと。
これが一番難儀なのだ。自分の権利や使える制度も知っている。自分がいかに危機的な状態かも、自己責任論の誤りも。しかし、「生きる意欲」がない。その気にならないのだ。
馬を水辺につれていけても水を飲ませることはできない。
人は馬よりも複雑でナイーブ。人がもう一度立ち上がり、生きようと思うにはどうしたら良いのだろうか。三十年間の活動はこの一点に集約される。
特効薬はない。辛抱強く訪ね続け、出会い続けなければならない。
その時、大事なのは、「人の心を変えることはできない」という現実をわきまえること。
力ずくで変えようと思わないことだ。
人の心は「時」が来れば「自ず」と変わる。それまでを待てるか。支援者とは「待つ人」だ。
支援者にとって大切なのは、口にせずとも「生きてほしい」「幸せになってほしい」と強くて頑固な意志を持ち続けること。


言葉にならない対話を続けるのだ。その人の中に希望はなくとも、その人を思う人が希望を持つ限り、「その人の希望」は存在し続ける。
希望は外から差し込む光のようなもので、ここにも「他者性」が大きな意味を持っている。 


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