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再論 「故人を悼むということ―わたしが国葬に反対する理由」

昨日(2022年9月27日)安倍晋三元首相の「国葬(儀)」が行われた。以前にも思いが書いたが、困窮かつ孤立状態にある方々と共に生きてきた者として、改めてこの件について思いを残しておきたいと考えた。少々長いが良ければ読んでいただきたい。

今から34年前、おにぎりと豚汁、古着などを携えて路上で過ごす人々を訪ね始めた。その後、アパート入居や就労の支援など「自立支援」へと活動は広がった。「畳の上で死にたい」と言っていた人がアパートに入る。だが「これで安心」とはならない。「俺の最期は誰が看取ってくれるだろうか」。そんな不安が残っている。「自立が孤立」に終わり、最悪の場合「孤立死」になる。居住や就労が必要であることは言うまでもないが、それですべてが満たされるわけではない。そこには「孤立」の現実があった。

出会った方が亡くなった場合、家族が葬儀を出すケースは一割に満たない。そもそも家族がいない人。連絡は取れたが家族が来ない人。葬儀は家族が担う行事である。だから、家族の縁が切れた人は葬儀をしてもらえない。それは人としてどうなのか。「弔い」は人類だけの営みだと言われる。動物はしない。「弔い」は人であることの証しだとも言える。それが叶わない。それは「人としての危機」だと言える。路上の人々だけではない。単身化が進む現代社会において「誰が葬儀を出すか問題」は深刻さを増している。「葬儀を誰も引き受ける人がいない」ことが、アパートを借りられない理由にもなっている。

 そんな現実と向き合う中で私たちは「家族機能の社会化」を課題とした。そのため2005年には専門スタッフを中心とした「地域生活サポートセンター」を2開設した。さらに「家族機能」という極めて日常性の高い事柄を担うために相互に支え合う「地域互助会」を2013年にスタートさせた。現在、互助会には250人ほどが参加している。日々のサロン活動やお見舞いボランティア、バス旅行などを行うが(現在コロナで活動は控えめになっている)、最大の特徴は「互助会葬」である。

 「葬儀」は家族機能の最たるものだ。だから、家族がいない場合、葬儀自体が無くなる。そうならないために「赤の他人」が「家族のように葬儀を出し合う」仕組み。それが「地域互助会」である。

 これは「葬儀だけをやる」ということではない。なぜならば、葬儀は「つながり」の中で行われるからだ。葬儀当日、友人の弔辞や喪主(主に家族)の挨拶に会場が涙するのはそのためだ。互助会で葬儀を行うためには、日常のつながりをどれだけ創れるかが勝負だった。

 「逝去」の知らせに互助会の仲間たちが集まり弔いが始まる。牧師役である私の手元にはその人との関わりの全記録が届けられる。かつて野宿だった場合、野宿時代の巡回相談記録、自立支援施設での生活支援記録、自立後の地域生活サポートの記録など、出会いから最期の日に至るまでの全記録が届けられる。私自身の関わりも加えながら「葬儀説教」を書く。

葬儀では友を偲ぶ言葉が述べられる。大体が悪口。「こいつ、金を返さないまま死んだ」「酒癖が悪かった」「すぐに喧嘩した」などなど。会場は笑いに包まれる。しかし「こいつがいないとさびしい」と最後の一言が語られると皆が涙する。それは「家族」だった。いや、それ以上の「つながり」を感じた。私hたちは「出会いから看取りまで」を掲げて活動をしてきた。不完全ながらも今もそれを目指している。出会った人同士が「大きな家族」になっていく。そのことを大切にしてきた。

 先日、あるスタッフがこんなことを言っていた。「支援記録というのは完結で客観的でなければならないと言われますが、私は互助会葬で何が語られるかを思いながら記録を付けています。だから、エピソードや支援員の思いなども書くようにしています」。繰り返す。私たちは葬儀を大事にしてきた。そのために日常的な関わりを重ねそれを記録した。葬儀とは「つながり」中で、行きかう感情の中でのみ成立する事柄だと思っている。

だから故人を悼むということは、極めて「個人の内面に関わる事柄」なのである。人の死との向き合いに方には「差異」がある。一律にとはいかない。フランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチは「死の人称」ということを言った。「一人称の死」は「私の死」である。自分自身のことであって、誰に代わってもらうことが出来ない死だ。「二人称の死」は「あなたの死」である。親や配偶者、子ども、親友、知人、恩人など、自分にとって大切な人の死である。関係が深い分、自分の一部がもぎ取られたような痛みと悲しみを伴うゆえに「一人称の死」と繋がっている。時に愛する人(あなた)を亡くしたその痛みが自分のいのちに関わる事態となってしまう。それは「つながり」が深い証拠だ。そして「三人称の死」。「彼、もしくは彼らの死」である。つまり「他人の死」。日々報じられる事件や事故で亡くなった人の存在を知る。「かわいそう」と思うが、よほど造像力を働かせない限り、私達はそれを受け流す。「冷たい」という事ではない。すべての死が「一人称」や「二人称」の重みをもって迫ってくるならば、私達は耐えられなくなるからだ。だから「死の人称」に従ってその受け止め方を変える。これは正直な人としての現実である。

 故人を悼むことにおいて大切なのは「私との関係」で、それは実態的でなくてはならない。ただ、それは「実際に会ったことがあるか」とか「友人である」という単純なことではない。例えば「美空ひばりの歌にいつも励まされた」と言うファンが「ひばり」さんの死に衝撃を受けるのは当然である。「ひばりの歌に何度も救われた」という個人の思いが裏付けとなっている。だから、その「つながり」の中でファンは「ひばり」さんを追悼し喪に服す。「服喪」にはそのような「実態」が伴わないといけない。

 安倍晋三さんの死は衝撃だった。「非業の死」ということもあり惜しむ声もある。選挙中の事件であり、「民主主義への挑戦」「言論弾圧テロ」だと報じられたが、後に旧統一教会と政治家をめぐる癒着の末に起こった「恨み」に関わる事件だったと判明。特に、この宗教グループを応援していたと見られた安倍元首相が被害家族から襲撃されたのだ。思想的には「愛国者」であり「タカ派」と自認する安倍さんが、「日本は"エバ国家"で『サタン(悪魔)の国』である。教祖の恨(ハン)を晴らすのは『エバ国家日本をアダム国家韓国の植民地にすること』『天皇を自分(文鮮明)にひれ伏させること』」など主張していた旧統一教会を応援するのは誰が見ても矛盾している。また、旧統一教会の被害は裁判所の判決においても明白である。とはいえ、当然のことであるが、どんな理由があっても殺人を肯定する理由にはならない。

国葬を巡っては反対が6割にも達していた。その中での「強行」。反対の理由としては、「国葬の法的根拠がない」「秘密保護法、安保法制、森本学園、加計学園、桜を見る会など、疑惑の渦中にいた人は国葬に値しない」「税金を使って行うことには反対」などがあった。賛成する人は「憲政史上最長の総理大臣であった」「外交、経済での功績があった」、もしくは「非業の死」という亡くなり方から「民主主義を守る」「テロに屈しない」などがあったと思う。

私は、安倍さんの悼む「個人」がいても当然良いと考えている。私のような単なる個人に比べ安倍さんを悼む人が多くいることは不思議ではない。その人にとって安倍さんの存在が大きく、その死がまさに「二人称の死」として受け取らざるを得ない場合、それは「他人ごと」では済まない。

「死んだ人のことは悪く言わない」という日本の空気の中で反対と言い難い面もあった。さらに報道の仕方では「英雄視」する人も現れる。「献花」に訪れた人の中でには「あまり知らない」という人もいたと思う。それにせよ、自分の意思で「悼ん」でおられることに僕は異を唱えることは出来ない。個人としてその人の死を悼むことは「自由」である。

 私が反対するのは「国葬」とした点にある。それが法的根拠を欠くという点は法治国家にとって問題だ。私は、それ以上に「悼みの強制」が問題だと思っている。僕にとって安倍さんの死は「三人称の死」に過ぎない。「国葬だから」と「二人称の死だと思え」となればそれは無理な相談だ。岸田総理は、8月10日の記者会見において「故人に対する敬意と弔意を国全体として表す儀式」であるとを説明した。その「国全体」には、いつのまにか僕も含まれていた。僕のこころに勝手に入って来られては困るのだ。

「故人を悼む」というのは、その人との関わりの中で必然的に起こる「心の営み」である。極めて「個人の内面」に関わる事柄に国は関与してはならない。菅前総理が「友人代表」として語られた。心のこもったメッセージだったと思う。だが、それは「国葬」でなくてもいいはずだ。それでも「国葬」をやりたい理由はどこにあるか。「感動的」と今朝から繰り返し報道される「友人のことば」が矛盾を覆い曖昧にしてしまう。ポピュリズムと呼ばれて久しいが、政策や理念ではなく、人の感情を握る者が政治や国を左右してしまうことに正直不安を感じる。

 私は「つながり」の中で故人を悼んできた。そのために元来「赤の他人」に過ぎない個々人が「つながり」合い、家族のような関係を構築するために努力を重ねてきた。「あなたを失い私の心が悼んでいる」という極めて内面にある正直な思いで「葬儀」に臨んできた。今回の「国葬」は、人として最も大切な「心の営み」に国が土足で踏み込んだように思えたし、これまでの私たちの営みがないがしろにされた気もした。困窮・孤立に取り組んできた者として、さらに宗教者として、私は「国葬」には反対だ。

国家が故人を英雄化する時、「戦争への道」が開かれる。死を利用して人の気持ちを操作するなど絶対にあってはならない。「三人称の死」は「三人称後」に過ぎない。「二人称の死」は、具体的で限定された「つながり」に任せるべきだ。ちなみに「安倍家」の葬儀は、事件数日後に芝の増上寺にて身内で行われている。

改めてはっきり言う。僕は、自分の「心の営み」に正直に生きたいと思う。だから、放っておいていただきたいと思う。 


以上

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奥田知志
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