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光の中の闇、闇の中の光

 88人。昨夜(2023年6月24日)の小倉の炊き出し会場に並んだ人数に現場は緊張した。一年前は60人に満たなかった。一年で1・5倍になった。ここ数年で最悪の数値だと言える。炊き出しに並ぶ全員が野宿状態の人々かというとそうではない。半数以上は地域に暮らす方々だ。家はある。しかし、一食、薬、古着などを求めて炊き出し会場に詰め掛けているのだ。その夜は、政府が新たに物価高騰対策として実施する給付金の説明を行った。皆、真剣に聞き入っておられた。切迫した空気を感じる。
 コロナが一段落を迎えた感があり町の人出は回復しつつある。株価はバブル崩壊後の最高値となった。空き家・空き室が多いはずの北九州市だが、あちこちでマンション建築が進んでいる。景気が良くなっている様子が伺える。しかし、その一方で炊き出しに並ぶ人は増え続ける。社会の二極が進んでいる。コロナ禍から次へと移行出来ている人とまだ苦しい状況から抜け出せない人。これは「危ない状況」だ。
コロナが大変だった時、「みんなが闇の中」にいた。「この先には光がある」、「もう少し頑張ればコロナは終わる」。そんな思いで誰しも頑張った。政府も給付金や貸付金を出し、不十分ではあったが何とかその時期を乗り越えることが出来るように対策を打った。確かにコロナの時期、生活保護申請が爆発的に増加するということはなかった。そして5月、コロナ感染症は「5類(感染症の分類・インフルエンザと同じ)」に引き下げられた。「闇は終わり光が戻った」かのように多くの人が思った。5類移行に伴いコロナの緊急施策も終了していった。
だが、終わらない人がいる。いまだ闇の中に取り残された人々がいる。「コロナが終わるまでの辛抱」と思いがんばれた。しかし、コロナが終わっても(実際には感染症は終わっていないが)しんどさは変わらない。いや、変わらないどころか、一層辛い状況となっている人がいる。世間は光が戻ったかのように賑わっているが、しかし自分はいまだ闇の中でもがいている。過ぎ去るはずの闇が去らないと分かった時、人は何を頼りにがんばれるのか。コロナという「期間限定の闇」が「無期限の闇」にとって代わる時、「もう耐えられない」と思わざるを得ない人がいても不思議ではない。それらの人は今「光の中に闇を見ている」状況だと言える。
 この間、政府の貸付金の利用件数は382万件、総額一兆四千億円を超えた。1月からは返済が始まった。最高200万円まで借りることができたので、その場合毎年20万円、10年にわたって返済することになる。住民税非課税世帯(単身年収100万円程度)は免除となるがこの基準は低く過ぎる。もう少し手前で免除すべきだと思う。
先日ある雑誌の対談で、ある県が貸付を受けた8000人に対する訪問調査を行った聞いた。結果、すでに13人が自殺していたことが判明したと言う。日本の自殺率(人口10万人単位の自殺者数)は17.5。上記8000人中13人を10万人で換算すると自殺率は160を超える。貸付金返済だけが自殺の要因であるとは当然断定できないが貸付金を受けた人が自殺ハイリスク層であることは間違いない。今後が心配である。
コロナという闇がようやく終わり光が戻ってきたように見える今、闇の中を歩き続けている人を思う。聖書には「光は闇の中に輝く」(ヨハネ福音書1章)という言葉がある。明けない闇の中にも光は既にある。
では「光」とは何か。聖書は「インマヌエル―共にいる神」(マタイ福音書1章)だという。つまり、「共にいる」ということが神であり、救いなのだ。経済的支援が必要であることはいうまでもない。だが「共にいる存在が救い」であるならば、私たちにもできることがある。「ひとりにしないこと」だ。抱樸の炊き出しは、食事の提供のみならず「共にいる―あなたは独りではない」ことを闇を歩み続ける人に体現する営みだと言える。
コロナよりも深い闇が迫ろうとも光はその中で輝いている。あきらめてはいけない。

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奥田知志
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