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「僕が被災地に通う理由」

 先週は岩手で財団のメンバーと今後のことを話し合った。今週は能登。輪島周辺の施設や地域拠点へ物資を届け、現地の方々や輪島市役所の担当者と意見を交わした。まもなく財団の輪島事務所が開設される。
 今回の地震で輪島市の海岸線は5メートルほど隆起した。あの日まで海底だった部分が海面に出ている。「白く見えるのはすべて海底でした」と説明され驚く。遠くを見ると引き上げられた船が山間に見える。正月を迎えるために引き上げられていたが海底が隆起したため船を海に戻せなくなったという。海は数百メートル先で船着き場もいまや陸になっている。
 「あの日は、これまで経験したことがないものすごい揺れでした。体が両側に引っ張られるような状態でした。少し治まったので海を見ると海底が見えていました。『これは大変だ。大津波が来る』。津波の前兆である『引き波』が始まったと思ったのです。みんなで高台に避難しました。恐ろしかった。でも津波は来ませんでした。しばらくたってあれは『引き波』ではなく海底が隆起していたと気づきました。津波が来なかったのは良かったですが、まさか海底がせりあがったとは。それも恐ろしかったです。人間などというものは大自然の前では実に小さい存在です。それを忘れてはいけません。でもそれを恐れているだけでもいけません」。
 隆起した海岸を見ながら、そんな話しを聴いた。想像をはるかに超える事態の中で大自然の驚異と自らの小ささを人は知る。僕自身、どの被災地においてもそれを実感する。人は自然の前に謙虚にあるべきだし「恐れ」を忘れてはいけない。しかし、だからと言って「大自然の前では人間の存在など取るに足らない」と自暴自棄になっていても仕方ない。人はそれでも大自然にしがみつくようにして生きていく。
 発災からもうすぐ半年になろうとしている。なかなか進まない「復興」だが、それでも人は生きている。大きく崩れた山肌の下、田んぼにはきれいに苗が植えられている。寸断された道路は応急措置ではあるがアスファルトが敷かれ車が通行している。市役所には全国各地から応援の公務員がそれぞれの出身地のベストを来て被災者の対応に当たっている。人はただ恐れているだけではない。何度も、何度も、人間の小ささを実感させられながらも何度でも立ち上がっていく。
 最近は自然災害が頻発している。正直「またか」と思う。一方で僕は被災地支援が好きだ。などというと「災害を楽しんでいるのか」と叱られそうだが決してそうではない。しかし、大自然の前で豆粒ほどに小さい存在である人間が、それでも支え合い、もう一度立ち上がっていく姿に僕は感動する。しかもそれが「自然との闘い」といった勇ましいものではなく、自然に対する「敬意(尊敬する気持ち)」や「畏敬(心から服しうやまう)」、いい意味での「諦念(あきらめ)」をその根底に持っている営みであると思えるからだ。だから、僕は被災地に通うのかも知れない。

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奥田知志
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