「誰も行かぬなら私が行く」―追悼 中村哲さん
中村哲さんが銃撃を受け亡くなった。僕は言葉を失った。
書けない思いと書かなきゃという思いが錯綜している。たが自分のために少し書こうと思う。
ペシャワール会が始まった1983年、僕は大学一年生だった。
大阪の釜ヶ崎で日本の現実を知らされた。1990年東八幡教会に赴任。
その後、細々とホームレス支援を始めた。
実は、当時ペシャワール会の報告会は東八幡教会で行われていた。
今や中村さんの講演会となるとすごく大勢の人が集まるがその頃は数十名の小さな会だった。中村さんの活動はすでに圧巻だった。でも、僕はひねくれていた。
海外で活躍する中村さんに対し「日本の困窮者はどうすんだ」という歪んだ気持ちで見ていたと思う。
数十名であっても熱心な支援者が集うペシャワール会の報告会。
ホームレス支援の集会には数名も集まらない。僕は嫉妬していた。
ペシャワール会の初代事務局長は佐藤雄二さんというお医者さんで、中村さんとは大学同期。この方は、東八幡教会の会員だった。
僕の赴任した年に病に倒れられ翌年43歳で召された。26歳、新米牧師だった僕はこの方の最後の日々からいろいろと学ばされた。
葬儀は、九大と肥前療養所の合同葬。列席された数百人の前で説教をすることになった。
新米牧師はビビりながら、あれこれ話したと思う。
式の途中にアフガニスタンから中村さんが到着。現地の衣装まま会場に現れた中村さんは「雄二なんで死んだ」と絶叫された。
「私は牧師さんのようには語れない」とも仰った。それは「そんな上手に話したらダメだ。そういうことじゃないんだ」という意味だと僕は受け取った。
牧師になって二年目の僕は「それらしい話し」をしたんだと思う。中村さんには、そんな浮ついたことばは通用しなかった。恥ずかしかった。
佐藤さんもそうだが、中村さんの活動は多くのスタッフに支えれていたと思う。今回も現地スタッフなど5名が一緒に殺されたという。彼らの死も忘れてはならない。
その後、何度か講演会などでご一緒させていただいた。あの日のトラウマか、あまりお話しはしなかった。お互い「ああ、お久しぶりです」と笑顔ですれ違った。
僕が中村さんから最も影響を受けたことばは「誰もそこへ行かぬから、我々がゆく。誰もしないから我々がする」だった。
この言葉を違うフィールドで僕は大事にしてきた、つもりだ。中村さんには到底及ばない。覚悟も足りない。
しかし、この言葉が僕を常に励ましてくれた。
「誰も行かない」のはなぜか。危ないからだ。
だったら「私が行く」と中村さんは、アフガニスタンに通われた。
今回のことはその帰結でもある。しかし、こういう生き方が無ければ現実を変えることはできない。「危ないから行かない」と言ってしまえばすべては終わる。中村さんは、キリスト者としても大先輩。同じバプテスト派の信徒だった。キリスト道、十字架の道とはそういうことなのだろう。
中村哲さんを世界が追悼している。世界が悲しんでいる。しかし、悲しみを憎しみに変換してはいけない。それは中村さん自身忌避されるだろう。
そうではなく、僕にとっての追悼は「どこに行くべきか、何をすべきか」を静かに祈りつつ考えることだと思う。
中村哲先生。お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。
僕も、先生に勇気をもらい、もう少し先に行ってみようと思います。では、いずれ天国で。
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