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「コロナ禍の三年を経て―元には戻ってはいけない」           (東八幡教会2022年度報告奥田牧師)

1,はじめに―テドロスの指摘
この3年間、私たちは思いがけない日々を過ごしてきました。2020年の年明けと共にコロナ禍が始まり、3月には世界保健機関(WHO)によってパンデミック(感染爆発)が宣言されました。
2023年5月、ついにWHOは「国際的な公衆衛生上の緊急事態の終了」を宣言しました。とはいえ感染が治まったわけではありません。いつ、さらなる変異型が現れるかわかりません。用心する必要はあります。とはいえ「一段落」という空気が日常を照らし始めているのも事実です。ゴールデンウイークの人出やインバウンドの再来など、現に多くの人が「解放」された気分でいます。
しかし、私は「これで元に戻れる」と考えるのはどうかと思っています。WHOテドロス事務局長は、緊急事態終了の表明と共に次のことを述べています。
「新型コロナは世界を変え、私たちをも変えた。これがあるべき姿だ。新型コロナ感染拡大前の状況に戻れば、私たちは教訓を学ばず、未来の世代が失望することになる」。
「コロナ禍で世界や私たちは変えられた。それがあるべき姿だ」とテドロスは言います。この指摘は重要です。日常を取り戻しつつある今日この頃ですが、私たちは「コロナ禍によって変えられた存在」として今後を生きなければならないのです。それはWHOのテドロスが指摘する「公衆衛生に対する備え」に限った事柄ではありません。3年間に私たちが経験したあらゆる事を心に刻むことによって、私たちは「元の状態に戻らない」、いや「戻ってはいけない」と気づくことになる思うのです。

2,ソーシャルディスタンスとは?
例えば「距離(ディスタンス)」の問題です。3年間、私たちは「他者との距離」を常に気にしてきました。感染の恐怖からいつしか他者を「感染源」「リスク」、あるいは「危険」と見なすようになり「関わらないことが安全」「近づかないこと安心」とさえ考えるようになりました。「ソーシャルディスタンス」という聞き慣れない言葉が「社会道徳」となり、「他者から離れること」を心掛けるようになりました。しかし、皮肉にもこれほど「他者を意識したこと」はなかったかも知れません。
コロナ前、世界は「自分」にこだわり「他者」や「他国」の存在を軽んじ「自国第一」を大国のリーダーが声高に語っていました。コロナ禍は全員を当事者にしました。「自国のみ助かる」という妄想が打ち破られ、世界が協調しないと生き残れない事態となりました。結果的には感染予防の立場から「他者から離れる」というライフスタイルが定着してし社会の孤立化は進行したようですが「一緒にいることへの渇望」もまた高まったと思います。「ひと恋しい」そんな思いがこの春の人出には見受けられたように思います。私たちは「他者を忌避しつつも意識してきた」のでした。
私は、今、かの日々を振り返り「社会的距離(ソーシャルディスタンス)とは何か」を考えています。感染症においては「飛沫が届かぬ2メートル以上」が「あるべき社会的距離」となりました。感染が一段落しもはや「2メートル」という話は無くなりました。感染を防止はともかく「では、あるべき社会的距離」とは何かを私たちは考えるべきなのだと思います。
例えばしんどい時、私たちは「蚊の鳴くような声」でつぶやきます。大声で「助けてください」とはなかなか言えない。その「つぶやき」が聴こえる距離。それも「社会的距離(ソーシャルディスタンス)」だと思いますし、声として届かなくても「表情を難じることが出来る距離」なのかも知れません。とわいえ真横に誰かが常にべったりいると、これは疲れます。たまには独りになりたいと思うわけです。安心して独りぼっちに成れる距離。無視ではなく余計なことはしない距離。それも素敵な「社会的距離(ソーシャルディスタンス)」ではないか。コロナ禍を経験した「変えられた私たち」は「あるべき社会的距離(ソーシャルディスタンス)」を模索することが出来ると思います。

3,元に戻せない―変えられた者として
「距離」だけではありません。コロナ禍によって考えさせられたことは様々です。ある国では、急増した患者数に対して医療資源が足りず「トリアージ(フランス語の選別が語源。救ういのちを選別するという意味)」が議論されました。普遍的価値である「いのち」をどう捉えるのかが問われたのです。実はコロナ禍以前、2016年に起きた「やまゆり園事件」において「意味のあるいのち」と「意味のないいのち」の分断は始まっていました。これでは「元に戻る」ことなどできるはずがありません。いのちの絶対的な価値とは何か。それを守る社会とは何か。「変えられた私たち」は今、問われているのです。
仕事が減り、収入が減少したことで「困窮状態」に陥った人が大勢おられました。しかし、これはコロナ禍によって新たに起きた事象でもありません。コロナ禍前から「ギリギリで暮らす人々が多かった」ことがこの度明らかになっただけです。余裕のない人は一気に困窮状態へと陥りました。これもまた「元に戻る」というわけには行かない現実なのです。
見舞いもできず、家族の看取りも出来ませんでした。葬儀もままならない事態の中で私たちは、見舞い、看取り、弔いは人であることの基本に関わることだと改め認識したのでした。それらは人と人とのつながりそのものです。私たちはこれら大事な事柄を失ったことに大きな衝撃を受けました。そして失って改めてその価値に気付かされたのです。コロナ禍以前、私たちは、そのような人としての営みをどれほど大切にしてきたのか。家族が来る事がない方の葬儀を30年間続けてきた私にとって、コロナ禍はそのさびしさがいかなるものかを多くの人に考えさせたと思います。小規模葬儀や直葬などが話題となっています。「費用が負担できない」、「家族に迷惑をかけたくない」など現実はありますが、人類だけが成す営みとして「葬儀」の意味は、今一度考えたいと思います。2013年以降、抱樸では「家族機能の社会化」を目指し「地域互助会」をつくり、「なんちゃって家族」と呼べるつながりを創ってきました。すでに200人以上に方々の葬儀を「赤の他人(互助会)」が担ってきました。今後、そんな地域社会が必要となると思います。

4,教会は変化したか?
そして教会。教会も3年間、大きな嵐の中に置かれました。「礼拝堂に集うという当たり前」だと思っていたことが容易でもなくなりました。「ひと所に来て集う」。それは「教会というシステム」の基本でした。2020年の緊急事態宣言下、礼拝堂に集い得る人はそれまでの半数にも足りない事態となりました。「礼拝は続ける」と宣言し休むことはありませんでしたが、私は教会の「常識」であった「礼拝堂まで来なさい」「来れた人が信仰者です」という「これまでの常識」を疑いつつ見つめていました。「集う」とは何か。それを考えさせられた日々でした。
「教会に集えない人」はコロナ禍以前から存在しました。ただそれが「レギュラーな事態」ではなく「イレギュラーな事態」だと私たちは考えてきたのです。それはどうだったのか。これもコロナ禍の残した問いです。だから教会も「元に戻る」ことは出来ないのだと思います。
東八幡キリスト教会は、コロナ禍以前から「星の下」をはじめ、インターネット配信の体制を構築していました。本当によかったと思います。ただ、現状において「星の下会員」が教会員の5倍近くの数となり、礼拝堂にて礼拝に参加している人の数倍が毎週オンラインで礼拝に参加しておられます。コロナ禍において緊急避難的に拡充された配信の仕組みでしたが、今となっては東八幡キリスト教会の一部と言えます。
そんな中、東八幡キリスト教会はもはや2019年以前に戻ることは出来ないと考えています。私たちは「変えられた者として」これまでのこと、つまり「元の在り方」を検証すべきだと思います。「礼拝」「教会員」「献金」「伝道」「キリスト者」など。これまで当たり前だったことを「コロナ禍によって変えられた者」として見直す時を迎えているのです。

4,イエスと出会った人々
イエスとの出会いは、そのような「変化」をもたらす事柄であったようです。イエスと出会った人は、元の場所には戻れない。東の国の博士らは、幼子イエスと会った後「別の道を帰って行った」と書かれています。イエスと出会ったペテロとその兄弟は、漁師を捨て、親もおいてイエスに従ったと言います。キリスト教徒を迫害していたパウロは、イエスと出会い目からうろこが取れ、キリストの使徒となり、それまでの自分のこだわりや大事だと思ってきたことを「ふん土」だと言い切ります。本当の意味で「出会う」ということは、そのような「変化」が起こることを意味しています。
当然、コロナ禍とイエスは違いますが、私たちはコロナ禍と出会ったわけです。その中で必死に生きてきた。その中で聖書を読んだのでした。当然、これまでには考えもしなかった聖書の読み方が与えられたのでした。
コロナ感染がこのまま収束してくれることを心から願います。しかし、コロナの収束が「元に戻る」ということではないのです。同じような失敗を繰り返す事がないためのみならず、これを「機会」として新しい社会や世界の在り方を考える契機とすべきだからです。
東八幡キリスト教会は、2025年に創立70年を迎えます。この70年間、私たちは大切ことを大切にしつつも、大胆に時代との対話の中で改革に取り組んできました。コロナ禍は、さらなる前進へと私たちを誘ったのだと思います。そうでなければこの間亡くなった方々、しんどい思いをされた方、いまなおしんどい状況に置かれている方々に申し訳ないと私は思います。
2022年を振り返るに当たって、私はそんなことを考えています。

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奥田知志
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