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「平和憲法はそもそも現実的ではない」

戦争反対、非戦、軍備も反対。そんなことを言っていると「バカかお前は。現実を見ろ。このお花畑野郎」と言われる。「ロシアとウクライナの戦争が現に起こっているのだからそんな理想論を語っても意味がない」と。
結果「現実に合わせて憲法を変える必要がある」という人が現れる。昨今、結構な人がそれを支持するようになっているようだ。だがそれは根本的に間違っている。なぜなら「そもそも憲法は現実的ではない」から。憲法は「現実を書き表した文章」ではない。

アジア全体で2000万人、日本で300万人、沖縄では四人に一人が亡くなった。広島、長崎の惨禍。あの時、多くの人々が「こんな現実」を是認することができなかった。「こんな現実」を否定し、本来あるべき世界、あるべき自国を思いが「ことば」が創られた。それが憲法だ。「誰が書いたか」など問題ではない。「あの現実の辛酸を舐めた」人々が理想を掲げ「こうなりたい」と思えたのだ。だから平和憲法は現実的ではないし現実的であってはならない。そうして出来た憲法を現実に合わせて書き換えたらどうなる。だいたい「現実」は書いて表すまでもなく眼前に広がっている。だから、今更書くまでもない。

「聖書にはこう書いてあるが現実はこうだ」。教会でしばしば聞かれる。これも順番が間違っている。「現実はこうだけど聖書にはこう書いてある」と言うべきだと思う。聖書の存在意義はそこにある。イエス自身その順番で語る。「友達を愛し、敵を憎め。それが現実だ。そうして殺し合ってきただろう。しかし私は君たちに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ福音書5章)。現実のままで良ければイエスなどいらない。

憲法は確かに「ことば」に過ぎない。聖書もまたしかり。ヨハネ福音書は「初めに言(ことば)があった」から始まる。「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と続く。この「言」とは何か。ケセン語聖書を書いた山浦さんはこの部分を「初めにあったのは神さまの思いだった。神さまの思いが凝(こご)ってあらゆる物が生まれ、それなしに生まれた物は一つもない」と訳す。「神さまの思い」が凝って、固まってこの世界となる。現実が先行したのではない。先に在ったのは「神さまの思い」だった。例えば「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」(ヨハネ13章34節)とイエスは弟子に「思い」を伝えた。そんな「思い」が現実を変えていく。それが正しい順番だ。

憲法9条2にはこう書かれている。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」。交戦権は、国際法上認められている「戦争を行う権利」を意味する。これを否定したとなると「侵略されても戦わない」ということを宣言したことになる。(学説的には『戦時国際法上する権利』に限定する立場が強いが)。「それは現実的ではない。やられたら自国民防衛に立ち上がるのが当然だ」という声が聞こえてくる。しかし、今回のロシアもウクライナも「交戦権の行使」が終わりなき殺戮を生んでいる。ガザでは死者が3万人を超え子どもたちが飢餓状態になりつつある。

「現実はこうだが憲法にはこう書いている。だから戦争はしない」。これのどこがいけない。何が問題だ。

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奥田知志
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