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「たすけて」が言えないわたしは、何に怯えているのか|言いたいことが言えない理由
今回は、だしまろすさんのnoteがインスパイアを受けたnoteです。
今苦しんでるみんなも、
「たすけて。」
のひとことが言えるようになりますように。
「たすけて。」の一言がやたらと強調して見えました。
そうなんです、これ言うの苦手なんです。
だからこそ、適応障害になったとも言えるのですが、あれから数年経ち、だいぶいい形で仕事にプライベートに、さらに自身の活動も回せているなと思っていつつも、ふとネガティブ目にスイッチが入ってしまったとき、特に言えなくなりがちです。
▽だしまろすさんのnote
なぜ、「たすけて」が言えないんだろう。
今回は、より踏み込んで考えてみることにしました。
「たすけて」が言えない理由
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まず、パッと思ったのは、成果主義的な発想でした。つまり、「成果を残さないと生きていてはいけない」という思考が今も残っている。または、メンタルが弱っているときに顔を出しやすいと言い換えることが出来るかもしれません。
でも、それだけだとわたしとしては、まだ納得しにくいというか、適応障害で休職した際に、「それでも生きていていいんだ」という気持ちになったはずでした。
▽適応障害直後の気持ちと経緯を書いたnote
にも関わらず、「たすけて」が言えないのは、一体何が心に引っかかっているんでしょうか。
嫌われるのが怖い?
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そこで思ったのが、「嫌われるのが怖いのでは?」ということ。「たすけて」以外にも、仕事でも直接的な指示や、パートナーにしてほしいことをストレートに伝えるのは、未だに抵抗があります。
それは、以前にも書いたような、「その人が前向きなときに、最大のパフォーマンスを発揮する」という考え方だけに基づいているとも思えません。
何かを言って拒否されることが怖いのでしょうか。
見つかったのは、心の奥底にしまった体験
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もう少し踏み込んで見ると、「たすけて」にブレーキをかけている存在が、心の奥のほうに見えてきました。
それは、トラウマと言うか、「こういう風になるとうまく行かなくなる」という失敗パターンの記憶です。
それは、「誤解されたまま、相手との対話の機会がなくなる」ということです。
一番最初の体験は、些細なことでした。
割と優等生で通っていたわたしは、小学校のプールの時間に見本として最初に泳ぐことになっていました。しかし、担当の先生との打ち合わせの時間を勘違いしていてしまい、弁解もむなしく、その機会は奪われてしまいました。
わたしのクラス担任の先生ではないこともあり、わたしの言い訳に一向に耳を貸さず、「まぁ、ある程度の年齢になると女性は、ヒステリックになると聞いたこともあるし、それかな」とかなりイヤな自己正当化で、納得するようにしていましたが、その体験自体は自分にとってかなり衝撃的でした。
逆に言うと、ある程度勉強もできて「よい子」の自分は、「弁を尽くせば、自分の主張は必ず通る」と思っていたのです。あるいは、「対話の機会さえあれば、覆せる」と言い換えてもいいかもしれません。
それから、バイトや仕事で大きな失敗をやったときもこれのパターンで、こちらの言い分は聞かれずに、一方的な決定がなされることがわたしの”ダメパターン”として積み上げっていってしまいます。
だから、相手との対話ができなくなる状況を極端に嫌います。選択肢が奪われることも嫌いです。
しかし、そこには大きな見落としが
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一見すると、それなりに理屈が通っているように見えるのですが、ここには大きな見落としと言うか、自己中心的な前提が含まれています。
それが、日頃の行い、つまり、信頼を得られるような行動をしているかということです。最悪、言い訳で切り抜ければいいと思っていた頃のわたしは、正直普段の行動も誠意に欠けたものだったと思います。
確かに、勉強が一定できたのはそうですが、ただ、それも、高校ぐらいまでで同じ学力の人間が集まったなかでは、その”個性だと思っていたもの”も崩れ去りました。
やはり、普段から後ろ指を刺されないような行動であり、堂々と胸を張れる行動が必要です。まぁ、それって多くの人とにとっては普通のことだと思うのですが、なぜそれがやりにくいのでしょうか。
自身の引け目がそうさせる
例えば、会社で言うと、自分も手を抜いているところがあったり、うまいこと「調整」している部分があること。
パートナーで言えば、昔、隠し事をしてしまうようなことをしていたり、色々なことがよくなってきているとは言え、10年以上経った今も、まだまだ理想には遠いことなどがあります。
子どもたちに対しても、もう少しまともな状態になるが早かったから、もしわたしが自分のやりたいことにもっと早く気づいていて、早い段階からいい形で回せたら…と思っている部分が否めません。
また、子どもたちで言えば、わたしが「たすけて」を言えない理由とは少し離れるかもしれませんが、わたし自身が子どもたちの選択肢を奪ってしまっていないか、そういった言い方や行動をしていないか。これも自分を責める要素になっているのだと感じます。
ただ、子どもたちに関しては、ある種構造上しょうがないというか、そういうときもあるよねと思いつつ、ちゃんと向き合っていきたいと思います。
自分を責めたいだけ、に陥らないようにせねばとも書いてて思いました。
もちろん、それもまた「子どもたちとの関係だって、攻略法やコツがあり、自分ならやれるはずだ」というわたしの思い上がりであり、過大評価なのかもしれません。
しかし、同時にそれは、ずっと理想に近づくように戦ってきた証であり、少しずつでもうまく行っていることに喜ぶべきなのでしょう。
結局、
・自分をちゃんと受け止めて褒めてあげること
・パートナーも信頼して、ちゃんと頼ること
・変に物事を結び付け過ぎずに、フラットに生きていくこと
が理想なのだと思います。
それでも、人はなかなか理想には届きません。ただ、わたしは、これからも理想に手を伸ばし続けて、もがくのをやめないようにしたいと思います。
あがき続けることが、何よりも人間らしくて、わたしは好きです。
今回のトップ画像は、以前も使わせていただきました、ふうちゃんさんの画像を使わせていただきました!
「pasteltime」のドメイン名の通り、水彩の柔らかく混ぜ合った色合いと雰囲気が好きです。
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