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一生懸命な人が笑われない世界に|わたしの根っこにある想い

今回は、今まで根っこにあった想いについて書いていきたいと思います。
想い自体は割とはっきりしていたのですが、「実はそれって偽善的な気持ちがあるんじゃないの?」と、どこかでモヤモヤしていました。

そんなモヤモヤに対して、自分のなかで少し霧が晴れたような気持ちになったので、今回はその葛藤をそのまま書いてみます。
いいことしたいけど、どこか偽善的」というモヤモヤがある方の参考になったらうれしいです!


バカ正直な一生懸命さ、まっすぐさが「ダサい」時代

いつからか、そんな「空気」がありました

「空気を読む」いつからか、そんな言葉が一般的に使われるようになりました。
確かに、ひたすら自分の事ばかり話す人や全体が進みたい方向を乱すような人は苦手ですが、一方で、この概念を盾にした同調圧力も嫌いです。

幼い頃から体格に恵まれ、勉強もさして苦労がなかったわたしは、怖いもの知らずでした。だから、思ったことはそのまま言いますし、やりたいことはそのままやります。今思えば、割と奇異な目で見られがちでしたが、あまり周りの目は気にしないタチでした。

さらに、ここが一番大きかったのですが、勉強が一定できる上に、「素直さ」があるため、先生や周りの大人がどうしてほしいのかを先回りするような典型的な”よい子”であり、先生から攻撃されることは滅多にありません。
だからこそ、わたしも安心していた節もあるのですが、冷静に考えると、そうした立ち回りが、同級生からは疎まれやすい属性ではあったのでしょう。

幸い、「いじめ」とかは特にありませんでした。わたし自身が気にしないのと、スクールカーストや成績的に自分のほうが上だという自意識もありました。
しかし、いつしか授業を全力で取り組む姿勢、特に、運動系ではどこかバカにされている「空気」を感じていました。小児喘息にかかったことで、体育は休みがちとなってしまい、体育以外オール3という状態がずっと続きます。

確かに、そういう意味で言うと、いけすかないやつをバカにするには格好の時間だったのかもしれませんね。
あるいは、思春期特有の気恥ずかしさ、俗っぽい言葉で言うと、「不良」方向への憧れなど、色々な感情と背景が渦巻いていたのだと、今なら少しわかります。

向き合ってきた人たちの忘れらない顔

そんななかで、わたしが心がけていたのは、いわゆる「いじめられやすい人たちとフラットに接する」ということ。
それは、「よい子」的な振る舞いとかではなく、ずっと思っていたのは、たまたまそういう環境にあっただけで、彼らは一生懸命やっているということです。

家庭環境が恵まれなかったあいつも、高校からは恐らく専門の学校に行ったあの子も、まっすぐだったし、努力していたようにわたしには見えました。

でも、そうした人と接することで自分の優位さを確かめようとしているのではないか。これが心にずっと引っかかり続けます。

それでも、「知能に遅れがある」と言われていたあの子の笑顔は、くもりないものだったと今でも思います。
そして、中学に上がってからは、わたしも周りに勉強のできる人が増えたこともあり、徐々に「普通」の人たちと同じように、彼らと直接話すことをしようとしないまま卒業したからこそ、その笑顔が鮮烈に残っているのかもしれません。

環境問題と温度差

環境問題を考える学部に入ったが…

大学では、「環境」の名称が入っている学部に入学しました。在学中に、外国人留学生の支援を行うNPOに所属もしました。
今でいう、SDGsやソーシャルグッドの世界観に共感する人が多い学部です。

ただ、当時はいくつかの属性に分かれましたが、クセの強いタイプばかりでした。

まずは、「いいことをしたい」という勢。
「ボランティアの犬にはならない」という衝撃的エピソードを知ってから痛感した、正にそうしたボランティアする側の自己満足のための動きです。

人の役に立ちたいという想いは立派だと思いますが、自分自身のレベルアップや自己研鑽を疎かにしていいというわけではないと思いますし、自己固定感の低さを誰かで補うようなやり方は、無暗に人を巻き込むので自己完結させたほうがいいのではとわたしは思います。

次に、ニヒル派とでも言うようなちょっと諦めつつ、過激な思想も持つタイプです。
例えば、「分別しても無意味」や、「再利用するのにどれだけのコストがかかっている」とか、「温暖化の本当の原因は二酸化炭素ではない」とか、少し調べているので、完全にデタラメでもないからこそ、タチが悪いタイプです。

結局、「人類こそが環境を悪くしている」という論調が発展すると、選民思想や今でいうビーガン、DIEゴリゴリの方たちなど、多様性を盾に押し付けているほうがよっぽど差別的だと個人的には思うのですが、そういうタイプです。

ちなみに、ガンダムの世界観が好きなわたしも、愚民は一定数まで減らしたほうがいいという発想もどこかでありましたし、当時は都市伝説系もかなり好きでした。

結果的には、「環境問題を4年で学ぶ」と言っても限界があることもあり、広く浅く学ぶ、多面的なものの見方を養うという方向性の学部でした。
やはり、ここでも差別される側とする側双方を目の当たりにすることで、言いようのない憤りを、心の底で静かに燃やし続けていました。

世界は平等ではない。だからせめて、公平であってほしい。

わたしの根っこにあった、想いの一つはこれでした。
努力や成果をちゃんと見てほしい。

有名な動画で、クリティアーノロナウド選手にポルトガル語でインタビューした少年のたどたどしさに笑う人々。ロナウド選手も「なぜ笑うんだ」と訴えかけていました。あそこで笑っている人たちは、自身がポルトガル語で流ちょうに質問することができる方たちなんでしょうか。

金銭的な事情がある家庭に生まれたら、どううまくやるかのほうに頭を使わざるを得ない。その努力の方向が違うだけというEXITの兼近さんの動画も非常に納得感のあるものでした。

いつからか見栄えと言うか見栄ばかり気にしすぎるようになり、自分の好きなことや挑戦ができなくなったのではないか、とさえ錯覚してしまいます。

しかし、これもわかります。みんな不安なんでしょうね。自分の中身のなさがバレるのが怖い。自信のなさから相手を叩く、足を引っ張ることで「遠くに行かないで」「私を置いていかないで」という思いも混じっているかもしれません。

そして、わたし

と、ここまではカッコいいことを書いてきましたが、ここからはカッコ悪いわたしの話です。
今まで、その人とフラットに向き合ってほしい、フェアに努力を見ようなど言ってきました。そして、それを笑う人たちの心理。
だから、「わたしたちはこうしよう」という話に続きそうですが、これは学校の作文ではないので、ちゃんとわたしの話もさせてください。

大学のときに出した結論は、自己満足でもいい、何よりも相手のためとかおこがましい。ちゃんと相手のことも考えて、自分がしたいことをちゃんとやるというものでした。
「やらない偽善よりやる偽善」に近い考え方ですね。

でも、これだとまだ、自分より「下」に見ている人たちと一緒にいて、自分が安心したいだけなんじゃないの?という疑問には答えられていません。

そして、今回わかりました。
わたしは、自分の努力をちゃんと見てもらいたいんだなと思いました。
世間知らずでひたすらもがいて、自分が適応障害になりやすいHSP的な体質なんて何も気が付かずにひたすら走り続けた。

繰り返した転職も何のその、でも、不安だったけど、何とかここまで来たんだという自分を認めてほしかったのだろうと。
自分が未熟で作った借金。でも、だからこそ、お金に対してのリテラシーを上げることができた。
しかし、それも今ならちゃんと言えます。「ナイスファイト、わたし」と。

でも、今もそんな自分の努力を認めてほしい人がいっぱいいると思うから、わたしはそうした人たちにちゃんと声をかけていきたいと思います。
そして、自分にもしっかり言おうと思います。

そしたらきっと、わたしもその人も、もっと前向きに人生をたのしめるから。



今回のトップ画像は、事務サンのお写真を使わせていただきました!
健常児と障碍をお持ちの姉妹ママさん。今回もテーマと関連した方のものと通じたみたいでうれしいです。


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