「暴力の対義語は『対話』」きなりさんのnoteから
今回は、きなりさんのハラスメントに関するnoteにかなり共感したのと、暴力の対義語は「対話」という言い回しにかなりハッとしたので、ハラスメントや対話についてのわたしなりの考え方を書きたいと思いました。
▽きなりさんのnoteはこちら
「何でもかんでもハラスメントだと何も言えないな」に湧き上がる憤り
こういうときだけ、フェミ感を気取るわけではないのですが、どうしても、”旧世代の管理職おじさん”のような人がイメージされます。数的にもマジョリティ(多数派)だからでしょうか。*もしくは、わたしの父とイメージを重ねているのかもしれません。
「なんでもかんでもハラスメントって言われちゃうんじゃ、もう何もいえないな」に含まれるのは、2つです。
そう、微妙なすり合わせをする器用さもなければ、そもそも、それをする意思もない。そのくせ、自分たちは今までそれによる恩恵を受けてきた側だからだと、わたしは思うのです。
一方で、なんでもかんでもハラスメントに仕立て上げ、会社や上司を訴える人も、逆の側面による弊害だとは思います。
しかし、こうした無自覚な悪意に満ちたスタンスが、腹立たしさの火に薪をくべています。
同じ延長線上にある、LGBTQの方へのお話
同様の憤りで思い出すのは、LGBTQの方への態度です。
以前、わたしが所属していたビジネスサークルでは、何人かLGBTQを公言している方がいらっしゃいました。
そうした人のプレゼンで揶揄されるのは、同性のメンバーによる「オレも狙われる、怖いー」といったような聞くに堪えないもの。
ちなみに、後ほどご本人にこの話を聞いたら、「ないわ、あんなブス」とさすがの対応でした。
ここで感じるのは、^理解ができないものが怖い」という感情以外に、異性であればすぐにそうした対象と見ていることも透けてきます。そうじゃなければ、好意を抱く性が自分と同じだというだけで、自分にその視線が向くのはどれだけ自信過剰なんだという話になります。
ただ、これは自信過剰などではなく、自身が、異性だったらかなり幅広く、恋愛とかではなく、もっと別な対象として認識しているからに他ならないのではないでしょうか。
もちろん、それほど、目くじらを立てるような話でもなく、あくまで、「好きな芸能人は誰?=いつも見ている人のなかで誰が好き?」という発想の延長線上なのかもしれません。しかし、そうしたいかにも、マス向けのしょうもない思考次元に踊らされている感じがして、わたしは辟易します。
必要なのは、相手を知る対話
やはり、ここで重要なのは、相手の価値観を知る対話です。
もちろん、それを知った上でどうするかは、こちら側が調整できる部分でもありますが、まずは相手を知ること。
そして、可能であれば、自分のことを知ってもらう努力をすること。
わたしは、適応障害になる前も、ある程度相手の価値観を知るようにしていた部分はありましたが、それでも、自分のことを知ってほしいという気持ちのほうが正直強かったと思います。
今は、相手のことをちゃんと知った上で、相手が知りたいと思ってくれたタイミングでしっかり自分のことを話すようにしています。
全然無理はしなくていいのですが、それでも、自分のことばかり話す人とお話すると、少し寂しい気持ちになります。
しかし、お互いに相手の話を尊重する人たち同士で交流を深めればいいと思っているので、あまり気にしないようにしています。
そんな形で、マスの社会に適用する形よりも、こじんまりした複数のコミュニティに、広く薄く、時には自分が主催だったり、参加者だったりとグラデーションを持ってつながっていく。
そんなあり方のほうが、過ごしやすいですし、今の時代には合っているのではと思う今日この頃でした。
あとがき的なもの
すみません、ホントは対話のためのガンダム、ガンダム00に出てくる00クアンタのことで頭がいっぱいだったのですが、マニアックすぎるのと、ただただガンダム愛を語るnoteになりそうだったので、ちょっと違う方向性で着地しました。
そういう「ただ愛が全開のnote」も面白そうですね!
また、今回のトップバナーも、ももろさんのイラストを使わさせていただきました!いつも素敵なイラストをありがとうございます!
今回の記事、割と踏み込んだ主張も書いているので、ぜひ、あなたの意見も聞かせてくださいね!