”引き出し”が増える「見ることの重奏」【東京都写真美術館】
今回も、「#灯火Art Week」のアートレポートです。
東京都写真美術館「見ることの重奏」についてまとめていきます。
実は「写真」には苦手意識と言うか、表現者として「ズルい」という感覚がありました。簡単に言うと、これまた嫉妬ですね。
自分にはできない表現、切り取り方。特に視覚的に一目でわかるため説得力も高い。
ただ、写真展みたいなものは見たことがありましたが、アートとしての写真はまだ見たことがなく、また違ったジャンルの本物に触れたいと思って東京都写真美術館「TOPコレクション 見ることの重奏」に行きました。
ちなみに、今回もぐるっとパスで行っています。
▽「ぐるっとパスってなに?」という方は、メッチャおトクなのでぜひチェックしてみてくださいね!
ちなみに、どんな作品が出ていたのか気になる方は、Naota_tさんのこちらのnoteが素晴らしすぎるのでオススメです!
さて、では改めて「リ・キュレーター」の視点から、わたしが感じたことを書いていきます!
▽展覧会 公式ページ
これぞ、アーティスト思考!
これはなかなかにシビれました!
「写真に身を置く方と、絵画の方のアプローチは違うのだろうか」と思いながら見てましたが、山崎さんの言葉と合わせて展示されていた水平線の写真に圧倒されました。
絵画のアプローチと比較すると、思ったことは対象が必要ということ。
ただ、いきなりこの山崎さんの言葉で、アーティストとしての根っこは同じなんだと安心したのを覚えています。この反骨的というか、常識を覆さんとする意思みたいなものがビンビンで最高でした。
様々な表現の幅
今回の展覧会のメインビジュアルにもなっている奈良原 一高さん の〈デュシャン/大ガラス〉(公式サイトから見れます)。このシリーズは、ガラスを有名なデュシャンの作品を撮影することに恐縮しながらも、ガラスを通して、「意図を入れずに」撮影したものというキャプションがありました。
意図があり、対象があり、だからこそ、それらを超越した手法でのアプローチ。アーティスト的な発想そのものでした。
また、単に風景を写真に収めることには留まるはずもなく、展開される様々なアプローチは、わたしの思う「写真」の既成概念を見事に打ち破ってくれました。
見ることの重奏
写真は撮影者が「見た」ものを、カメラというファインダーを通し、さらに今わたしたちの目を通して色々な想いを馳せています。
さらに、そこには先ほど紹介したようなガラスを通したものや撮影者の意図、いくつものフィルターがかかり、ときに、意図的にフィルターを抜かれたりしています。
わたしが味わった「重奏」は、こうした”フィルター”の抜き足しでした。
おまけ
実は、恵比寿ガーデンブレイスは、10年ほど前に仕事で行っていたのですが、建物の雰囲気など、今の状態で行くと感じ取れるものが多く、非常に素敵な空間でした。やはり、心身の状態・コンディションは大切ですね。
また、よく行く絵画の美術館とはまた違ったベクトルのオシャレさ・カッコよさを感じ、また一つ別ジャンルの「本物」に出逢えた展覧会でした。