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「存在肯定」のマインドブロックが外せたかもしれない

今回は、最近改めて向き合う機会が多かった「存在価値」「存在肯定」の話に、ある程度スッキリすることができたので、思考の過程をシェアできたらと思います。

元々、「成果や他人からの価値を出さなければ生き残れない」という想いが強かったわたしは、「いるだけですばらしい」という価値観を、少なくても自分自身に向けることに根強い抵抗がありました
確かに、その考え方は大事だと思うけど、それだけじゃ生きていけないと、何度も立ち返ってきてしまいます。

休職などを経て、「何もできなくても生きていていいんだ」という気持ちに至っても、やはり、自分自身が腹落ちしていないため、何度も揺れ動きます。この辺りが、メンヘラ気質の方と似ていますねというのが、昨日アップした記事です。

▽色々な情報を集めた気づきなので、メンヘラ的な方を貶める意図はありません。わたしの勉強不足で勘違いしている点があったら、教えてもらえたらうれしいです。

そして、これもnoteあるあるだと思いますが、何度か同様のテーマで書きながら思考していたら、ようやく、一息つけるような現段階での一つの結論にたどり着きました。

「自分はイヤなやつなのでは?」という、自分を責める種

”上位者”であろうとする自分は…?

なぜ勝ち負けにこだわるのか、自分の居場所を確保しなきゃという自身の根っこにある考え方に気づいたとき、自分を苦しめていたのは、「自分はイヤなやつなのではないか?」という想いでした。
つまり、相手を理解したり、マーケティング的な思考を学ぶことは、人を「コントロール」しようとしているのではないかという仮定です。これを覆すのは困難でした。

また、何事にも「ジャッジ」してしまうことをパートナーに相談したら、「『いい/悪い』の判断ができるのは、ルール上の話か、神的な存在だけなんじゃないの?」という回答をもらい、衝撃を受けたのを覚えています。

自分を紐解いていくほど、見えてくるのは”上位者”になろうとしている自分。いわゆる「エリート思考」「選民思考」がどこから来るかわからず、苦しむばかりでした。

人生を、目いっぱい、味わいたいんだ!!

わたしが気づいたことは

ジャッジされる側になるなら、ジャッジする側に。
どうせ仕組みに従うなら、仕組みを作る側に。
空気を読まされるなら、読まれる空気を作る側に。

こうした思考が、「成果生存主義」とも呼べる優位性を死に物狂いで探す行動に繋がっていったのだと思います。

では、それはナゼか。わたしは、思い出しました。
小学生のころから、規則性やルールのポイントを押さえに行くのが好きでした。
人生という”ゲーム”の上で、重要なルールを押さえにいっているだけなんだと。だから、信用やお金のこと、ビジネスでの立ち回り方。それらはすべて「攻略」をしているに過ぎません。

でも、その根っこにあるのは、せっかく人生があるのだから、全力でたのしみたい、味わいたいという想いでした。
このことに気づいたとき、心底救われた気がしました。よくある「手段が目的化していた」だけのこと。

自分をありのまま受け入れられるかもしれない。そう思った瞬間です。
きっかけは、また紹介noteを書きますが、『アルジャーノンに花束を』を読んでからです。どこか目を背けていた「老いや死」をようやく自分ゴトにするヒントをもらえました。

こういう瞬間があるから、noteが好きなんですよね。
いきなり、この暫定的な結論までジャンプしたわけではないので、葛藤している関連記事もいくつか貼っておきますね。

▽時系列順にいくつかピックアップしました



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