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「まち協」のこぼれ話

≪おごおりト−−ク36≫

今回は少し軽めのお題でとりとめのない話ですのでお気軽にお付き合いください。
ここ数年、私自身が地域の協働のまちづくり協議会(以下「まち協」)に関わる中で、よくあるケースとして気づいたことをいくつか振り返ってみました。過去トークと重複する内容も含まれますが、お楽しみください。

1.それって誰がやるの!

「今年も○○イベントの時期がやってきました」
「スタッフは高齢化して年々少なくなっているけれど…」
「地域の皆さんが楽しみにしているので、我々だけで頑張りましょう!」

最近「まち協」事業の棚おろしという言葉を聞くようになりました。これは「まち協」でこれまで取り組まれてきた様々な活動が、役員の高齢化や担い手不足によって負担が大きくなっていることから、あらためて活動を見直して事業整理を行うというものです。

これまで「まち協」の役員や関係者の皆さんはやる気と熱意をもって様々な地域活動に取り組まれており、それぞれが大きな成果につながっていることは評価に値するものだと思います。しかし、実はそこには一生懸命であるが故の危険な“落とし穴”があることも見逃せません。

地域で様々な活動を行っていくときに、担い手となる人材がいなければその活動はできないことは当然のことです。しかし「まち協」において新たな取り組みが検討される際に、「誰がそれをやるのか」という視点は意外と見落とされがちで、結果として少人数の役員自らがやる気と熱意をもってその活動を背負い込んでしまうケースがあります。

「まち協」の資源(人材)には限りがあり、その限られた人材で担うことができる活動の範囲もまた限界があります。そして、新たな取り組みを行う際にはそれに見合った新たな人材が確保されなければならないことも当たり前のことです。

この「まち協」役員の負担過重の状況は、地域の担い手が不足するという「負のサイクル」を生み出します。このことによって「まち協」はますます特定の人達だけで運営される組織として固定化され、地域では敷居の高い組織というイメージとなり、さらに、新たな人材発掘や担い手の育成を阻害することにつながるおそれがあります。

冒頭の「まち協」事業の棚おろしの話。そのこと自体を否定するつもりはありませんが、そもそもその事業を組み立てる際に、「それって誰がやるの」という検討がしっかりなされていたのかどうか、とても疑問に思うところです。

2.お金が欲しいわけじゃない!

「まち協の来年度の役員のなり手が見つからない」
「そもそも役員手当が少なすぎるのではないでしょうか」
「それなら役員手当を増額すればすぐに見つかるってことか」

この問題もおそらくどこにでも“あるある”の話ではないでしょうか。皆さんもどこかで出会ったことがある事例かも知れません。

私個人としては「別にお金が欲しいわけじゃないけど…」というのが本音ですが、地域で住民主体の「まち協」を運営するにあたって誰かが役員を担わなければならないという事情も理解できますので、その労苦に報いるための謝金や必要経費としての活動費が地域住民の合意のもとで適正に支出されることを否定するものではありません。
しかし、地域のボランティア活動においては、その活動は個人の自由意思と自己決定に委ねられることからそのきっかけや動機も人それぞれ多様性があり、少なくとも十把一絡げで「役員手当を上げれば役員のなり手が見つかる」などという単純な問題ではないはずです。

以前も述べましたが、そもそも「まち協」は、役員となるべき人材を自前で確保することが難しい組織です。それは「まち協」が校区の自治会や各種団体との連携・協力のための共同体であるという性格によるものです。人材確保の観点から見れば、「まち協」は各自治会や団体の活動を担っている人材(多くはあて職)によって構成されているため、「まち協」が直接的に各自治会や団体の人材を発掘し、担い手を育成する立場にないということがその理由です。

しかし、だからといって「まち協」には人材育成の余地がないのかというとそうではありません。むしろ、地域活動の担い手育成の問題は、令和4年度に策定された「みんなですすめるまちづくり条例」や「まちづくりガイドライン」の中でも重要課題として位置づけられており、「まちづくりガイドライン」では「まち協」を校区の自治会や団体では担いきれない人材育成の機能を備えた組織に再構築することが提唱されています。

つまり「まち協」の活動をあて職の固定化された役員だけで担うのではなく、校区全体に幅広く有志の人材を募り、興味や関心のある人誰もがオープンに参加できる機会と場所を提供していくこと。その具体的活動の場が「まち協」の部会活動であり、その実践の中で育まれた人材が、やがて「まち協」を支える担い手(役員)として育成されていく。その道筋こそが「まち協」のプラットフォーム化の取り組みだといえます。

少なくとも「まち協」として検討しなければならない人材育成の課題を棚上げして、それぞれの部会活動において新たな担い手確保につながるような創意工夫も行わずに、担い手が不足しているからといって安易に「役員手当の増額」に転嫁することは、的外れな議論と言わざるを得ません。

3.マンネリのどこが悪い!

「最近、まち協の活動はマンネリ化していないか」
「今までやってきたことをやればいいってもんじゃない」
「そろそろ何か新しいことをやらなければマンネリ化してしまう」

マンネリ化(マンネリズム)とは、現状維持の状態や新鮮味がない状態をいいますが、「まち協」の活動は現状維持ではダメなのでしょうか、新鮮味がないとダメなのでしょうか。

そもそも「まち協」は、地域のまちづくりを目的として設置された組織であり、まちづくりとは、住民生活における様々な課題解決を目的とした住民主体の継続的な活動ということになりますので「まち協」の活動は得てして継続性がありマンネリ化するという傾向があります。

なぜなら「まち協」の地域課題の解決のための取り組みは、単発的な一過性の取り組みとは異なり、継続的に行われることによってはじめて住民生活に密着し、地域の環境改善につながります。もし、その活動が住民生活上必要とされていないものであれば、すでに廃止されるか新たな取り組みに置き換えられることになりますが、一方で、その活動がマンネリ化して継続されているということは、地域住民の生活上の問題解決に必要とされている取り組みだということになります。

例えば、のぞみ小校区で取り組まれている自治会バス事業は12年間の実績があり、当初の事業内容から大きな変更を行うこともなく現在もなお一定の活動が継続されています。この自治会バス事業はある意味マンネリ化して継続されてきたからこそ、住民生活に必要な買い物や通院等の交通手段として地域に根差すことができているといえます。

「まち協」として毎年同じ活動が継続して行われていることからマンネリ化を問題視する意見があるとするなら、まずは「マンネリのどこが問題なのか」、「その活動がマンネリ化することによってどんな影響が生じているのか」ということが個別に検証されなければなりません。

「マンネリ化しているから」という理由だけで何か新しいことをやる必要があるという発想はあまりに短絡的すぎると言わざるを得ませんが、だからといって「毎年同じことをやっていればいい」という意味ではありません。
その活動に参加する住民のモチベーションを喚起しながら地域活動を継続していくためには「脱マンネリ」は必要な手法の一つだといえます。

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