理系が精神分析を勉強してみる②

フロイトとラカンの取り扱い

今回は精神分析を科学の面からみて「どう科学的でないのか」、「どの辺が科学的であるか」という点を寸評していきたいと思います。

フロイトは様々な著作が手ごろな価格で出版されていますが、ラカンは岩波文庫から出たもの以外は専門書なので高価です笑。そしてラカンの主著「エクリ」は難解であることで有名です。そこまでの労力をかけるリスクは負いたくない笑

一点だけ言えるのは「ラカンはフロイトを全面的に「真」として取り扱っている」ことです。
ラカンを読んでいると読み方として面白い部分は多々あれど、基本的にはフロイトの「解釈」に徹している。

ですので、ここではフロイトの理論について「科学の面から見た」寸評を与えていくというスタイルをとっていきたいと思います。

フロイトの理論の概要

フロイトの仮説はざっくり言えば、「神経症は身体的な性的興奮の心的処理を妨げる全ての要因によってもたらされる」です。

https://www.waseda.jp/flas/glas/assets/uploads/2020/02/KATAOKA-Ichitake_0655-0670.pdf

これは彼の「臨床経験」からの理論であり、被験者の多くが幼少期の性的経験が「トラウマ」になっていたというところからきているようです(それが本当かどうかは知りません)。

「全ての心理的な欲動は性的な欲動によるものである」というのは仮説としてまずは受け入れましょう。

さて、これを「科学」とするには「仮説検証」と「論理的な論証」をもちいるとよいのだそう。

先も行ったようにフロイトの性起因説は全て「観察と診療における経験」です。つまりは「性起因説」という仮説が「経験によって」実証されています。

それは他の精神分析家の診療においても同様(らしい)です。つまり、一度フロイトの理論が正しいとしてしまえばその理論を元にした論理実証も可能です。

となると精神分析は科学になります。

が、科学の世界でも往々にして起きるいくつかの「よくないアプローチ」をとっています。

フロイトの論理の科学的問題点

極端な事例の一般化

フロイトは「神経症の人々の症例」から夢分析や言い間違い等、さらには未開部族に関する考察など「無意識の理論」を拡張していきました。

科学でもよくあることですが、極端な事例の一般化や拡張をする人は数多くいますし、その方向で研究を進める人はごまんといます(極端な事例の方が発見しやすいしセンセーショナルだからですが)。例えば「〇〇はこの手法でうまく行ったから次は対象を△△変えて同じ手法でやってみる」みたいな研究する人は科学の世界でも腐るほどいます。

往々にして「極端な事例」の一般化には何らかの「エッセンスの抽出」が必要です。フロイトはそれを「性」に求めました(そして、そのエッセンスの抽出に科学性があるというわけです)。
「極端な事例」はその「エッセンス」な要素が「過剰だから」起きるのですが、それが「通常」になると多くの場合、そのほかの影響によって覆い隠されてしまい、その影響は見えなくなります。

科学からの類推をすると「平均的な人間=神経症じゃない人」においてはそのエッセンスはもちろん見えなくなる。
これをフロイトは無意識は断片的に表れるとか、夢分析においてメタファーを使って表そうとしました。
フロイトは欲動を物理でいうエネルギーにしたいと思っていたようで「欲動は形を変えて現れる」としたようですが、物理もすべてがエネルギーで語られるわけではない。

その意味において、単一因子(欲動)にすべての原因を求めるのは「些か単純」すぎて「もう少し違う影響があるんじゃないの?」と思わなくはありません。

トートロジックな正当化

こちらも科学の世界でも多用される「悪い例」なんですが、「同じ作業仮説による論理実証」です。これはポパーが「論理実証主義」を批判した点でもあります。

フロイトは「臨床」から性起因説を実証したことになるといいましたが、これらはある種トートロジックな検証である可能性もあります。

通常「この理論に従うと○○が起きると予測できて実際に○○が起きるのでこの理論は正しい」という主張をするわけなんですが、「「理論」がよって立った現象」を使うとこのロジックはトートロジーになってしまう。

いわゆる「チェリーピッキング」の一種を行っているとも言えます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0

(質の悪い科学や疑似科学とwikipediaで言ってしまうのもどうかと思っちゃうんですが、、、)

人工知能を例にしてみましょう。ニューラルネットワークは昨今「人工知能」として扱われてます。「ニューラルネットワークによって「知能」が得られる」というのが現在の「仮説」であります。

これを検証するにはロジカルには「知能を得られない」事例を出せば良いし、そのような事例はたくさんあります。

一方でフロイトがやったこと、そして人工知能のアプローチは「できること、理論の事例の羅列」です。つまり「〇〇もできる、〇〇もできる、だからニューラルネットワークは知能を得られている」という論証の仕方です。

「ニューラルネットワークは知能を獲得できる」という理論の検証についてはトートロジーになっているだけです。

「その仮説の検証に「同じ作業仮説」を用いてしまえば、どんな場合でもその作業仮説が正しいと言えてしまう」わけです。

検証しえない仮定の存在

フロイトの理論には無意識や「エス」、「超自我」など無意識に関わる様々な用語が存在します。詳細は省くとして、これらが「原因」で様々な精神疾患的な症状を起こさせ、様々な「人間の心理」をもたらす。となっています。

「症例」そのものは観測でき実証することができるが、その理論を構成する要素である無意識そのものは検証することができません。

科学の世界でも似たような事例は沢山ありまして笑、例えば星の内部構造なんて表面的な現象は観測すれど星内部の構造は検証しようがない。脳科学も同様ですね。脳をこじ開けると死んじゃうので笑、表面の現象のみが観測されます。

こういう事象について理論を作ると「どんな理論でも作れる」状態になります。「正解ありき」で理論を作れるんですね。

変光星の例でいうと例えばある科学者が「この星は○○だから周期は○○日である」と予測して、予測が間違ったとしましょう。この科学者は必ずこういいます。「いや、それが違ったのは実は○○の性質が××だったからでそうなると○○の性質が変わって、、、だから私の理論は間違っていない」と。

フロイトも同様の修正や「修正に関する説」を入れます。例えば夢分析における「検閲」だったり、「子供の性的体験は必ずしも事実とは限らない」とか。

他の知見との整合性

こちらは若干後出しじゃんけんになります。

フロイトの時代では未開の部族は「文化的に後進である」というのが通説でありました。逆に今の価値観としては「未開の部族は部族なりのロジックを持って存続しており、後進や先進とは決められない」という了解があります(この了解も遠回りにフロイトの成果によるものではありますが)。

また、現在の科学の知見では精神疾患は交感神経と副交感神経のバランスの影響と言われています(これも過分にフロイトの影響がありそうな理解なんですけどね)。

特に医学側からの知見はフロイト以降、現在に至るまでに新たに蓄積されています。その一方で精神分析におけるこれらの概念は全くリンクさせることなく現在に至っています。至っているのかもしれないですが、少なくともドゥルーズ(1970年代)でも「エディプスコンプレックス」が語られています。

もう少し見ましょう。精神疾患が存在するのは必ずしも人間だけではない(こちらも後世になって理解されたものです)。鳥だって鬱になるみたいですし笑、犬や猫も同様です。彼らにも当然「性行動」は存在しますが、彼らに「エディプスコンプレックス」は存在するか?さらには野生の動物にも存在するのか?

これらの「動物心理学」的な検証はほぼ無理ですが、「科学」足りうるにはやはり「一般性」をどこまででもつき進めていく必要はあります。それによって理論の「一般性」についての理解とその限界がわかるというものです。

と言いつつもこういうアプローチをとる研究者も多くいます。単一理論、単一手法で研究をする人はごまんといる話はすでにしました。他の分野ではすでに解決済みである問題を分野を変えて延々と議論している人もいます。

精神分析の科学性はなぜ否定されるのか?

論理実証主義と「科学的手法」を用いると人工知能や天文学と精神分析は同程度の「科学さ」になりますし、「脳科学」や「天文学」等で精神分析と同様のミスを犯している程度にはそれらも「非科学的」と言えます。

おそらく1960年から1980年代まではある程度「科学」と認められていたのだとは思いますが、ではなぜ、精神分析は現代においては「科学」と言われなくなったのか?

一つは「マルクスの死」でしょう。精神分析とマルクス主義はアルチュールやラカン等によって密接な関係を持っていました。
また、マルクスも同樣に社会学の科学を標ぼうしましたが結果は知っている通りです。
マルクス主義の科学もそうなんですが、数式を使わず「言葉のみ」の論証が多い場合はあまり科学者は科学とみなさない印象です。例えば、経営科学とか、デザイン科学、心理学の理論の方等などですね。

おそらくこういう社会の雰囲気がラカンを数学メタファーにいざなったのでしょうが、一方で医学や生物学は「数学で表されない」の割に科学と見なされます。しかも精神分析は医学の範疇です。精神分析が効果がないというのであればコロナワクチンだって統計的には怪しい笑

もう一つは世界が「割と自由になった」ことも大きいのかもしれません。今でも精神疾患の人は増加傾向にありますが、おそらく1960年代のそれとはおそらく性質が異なるのだと思われます。
社会が自由になるにつれて「抑圧」的なものは減っていきますので、フロイト的なエディプスコンプレックスは瓦解していきます(最もこれがドゥルーズのアンチオイディプスの骨子なんですが)。

そしてそもそも日本ではあまり精神分析が流行っていないので、日本の科学者の雰囲気的に科学かどうかすら検討されずに科学にされないで終わったという印象があるのかもしれません。

いずれにせよ、精神分析を疑似科学と分類するのは非常に「恣意的」な意志が働いていると言わざるを得ません。そしてその「恣意的な」意志こそが「権力」であるというのもドゥルーズやフーコーが解き明かしたことであり、反省すべきな部分もなくはない気がします。



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