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見えないものを見ようとする人々
石の上にも三年というし、SNSも一通り何でも通ってきた。
これまで交流でリプやお礼をしたり、頂いたものを写真で載せたりしていた。
それは普段のお付き合いにおける、ささやかな喜びと感謝の伝達だった。また健やかな関係を築いていけている喜びを皆と分かち合うものだった。
贈りあったものを見せたりお礼を言ったからと言って、その人を贔屓するという意思表示ではないし、他人を貶めたりするものでもない。
そんな意味など存在しない。
だがSNSを使ってみて、その存在しないものを見ている場合があることに気づいた。
子どものプレゼント交換みたいな微笑ましいそのやり取りを、羨望と嫉妬、被害妄想で歯噛みしている人間が多くいることを知り、何もいえなくなった
私はあの人より蔑ろにされてると悪様に言ったり、気に入ってる人だけ贔屓していると吹聴したり、周りの人に不誠実だと誤解させてコミュニティから排除したりする現象を見ることが続いた。
コロナ禍は「見えないものを見ようとする」ことに拍車をかけてしまった。
デマの広がりと全く同じことが、個人から社会まで、あちこちで起こっている。
友人同士でもあったし、推しにもあった。
推しはファンがしてくれた誕生日の企画にありがとうと呟いたら、1人だけツイートでお礼返すのは贔屓だ、プロ意識ないとかまで言われた。
舞台の公演中だったけど、自分の誕生日を祝ってくれてるファンのみんなにお礼言いたかったから、わざわざ書いたはずだ。
なんのプロだと思ってるんだろう。
ファンの”みんな”がお祝いしてくれたことに喜んで、”代表で1人に”言ったように見えるんであって。
1人に言ってるようで”みんなに”感謝述べてるんだ。
みんなとはファンだけじゃない。
その企画に関わってお仕事してくれた人々もお祝いしてくれてたから、それを含めての関係各所に対する、言葉でのささやかなお礼だ。
社会人として普通の対応だ。
それにたかだか1人のファンを特別視するメリットって何もないだろう。石油王相手じゃあるまいし。(石油王だったら諸手を挙げて贔屓しときなさいって勧める)
地道に人脈大切にして普通にお仕事してるようにしか見えなかったが、その時々で勘違いすることはあることではある。
SNSはリツイートや応援リプ、声かけが注目度上げるシステムらしいからやってたけど、リプ欄で役者相手に被害者演技しかけるファンに、心が凍りついてしまった。
初めは推しに素直に出ていた褒め言葉やお礼も、そこに出てくる異常な現象を垣間見て固まりはじめた。どうしたらいいんだろう?
推し活に限らず、あらゆるところで敵対関係が出来てるのもよく見かける。誰も悪者とかじゃないのに、なんで戦ってるんだ?それがわからない。困惑する。
誰にでも手当り次第八つ当たりする妖怪が跋扈する場所で、コメントも応援リプもした方がいいのかしない方がいいのかわからなくなった。
お陰で友人に誕生日で贈ったプレゼントのお花の雑貨も、友人は喜んでツイートしてくれたけど、コメントはできなかった。
無邪気に喜びを表したい友人が、人気自慢してると付け入られて悪く思われないように。再び誰かに粘着されないように。
プレゼントもらって嬉しい!ありがとう!喜んでもらえて良かった〜!良かったね〜!といった、他意のない普通のやり取りなんだけどね。
やりにくくなったなぁ。
でもきっとコロナ禍だからなんだ。
悪い疑いに用心しなきゃいけないなかで、人の思考や習慣ってそう器用に切り替えは出来ない。それに疲弊してもいるし、間違うこともある。
悪い思い込みを決めつけたり、敵対する思考の癖が付いて、認知が歪みやすくなってるだけ。
でも戦い合うのは嫌だなぁ。争いは嫌いなんだ。
だからこそ安易に敵味方に分かれる流れに乗る訳にはいかない。乗りたくない。繰り返したくない。
敵なんかいない。
人と人がいるだけだ。
世の中が落ち着いてくればちゃんとわかる。
でもきっと今、私こそが、見えないものを見ようとしている人に見える人もいるんだろうな。
もしくは見たいものだけを見ようとする人に。
私は星を見るんだ。
真っ暗ななかに美しく流れる天の川の星々を。
きっとあれが、私たちなんだ。