皿を割った後の「怪我してない?」は義務化している
しばらく前に、トモロウがよく使っていたマグカップを、当時泊まりに来ていた弟が誤って割ってしまった。
トモロウはそれを知るなり怪我の有無を尋ね、弟に怪我がない事を知ると安堵した。
しかし、一つの疑問が生まれた。
皿を割った時の心配って、日本中でお約束化、義務化してしまっているような気がしないか?と。
世界でもそうなのだろうか?と。
家族や友人、パートナーが皿を割ってしまった時。
飲食店にて、店員が皿を割ってしまった時。
その際、側に居る者がまず先に「大丈夫?」「怪我してない?」と聞く事。
その次に「怪我がなくて良かった」と言う事。
かつて人が心の底からそう感じ、身を案じ、ようやく口から出ているはずだった優しさの言葉は、現代においては全く珍しいものではなくなった。
むしろ、『心配』や『配慮』から『マナー』や『当たり前』、『義務』へと変わっていった歴史があるようにも感じる。
そう言うべきものであり、そう言わなければならないものへと変わっていったように思える。
「そう言ってもらえると救われるよね」ではなく、「そう言えない人間はアプデ非対応だから、さっさとサ終しろ」くらいにまで加速しそうな気がするし、すでにそうなっている気もする。
『客の目の前で店員を叱る飲食店』が『日常の嫌』の象徴となった事も大きいのだろうか。
SNSの発達により、『配慮できない人間』が吊し上げられる事が増えたからだろうか。
同時に、それが日常的に可視化されるようになった事により、『配慮できない身内』への嫌悪感が何倍にも増幅するようになったからだろうか。
令和において、皿を割ってしまった人を叱る事などできるのだろうか。老爺の経営する飲食店や体育会系ラーメン屋ならギリギリできるかもしれないが、むしろ皿を割った者に被害者属性的権力が発生し、叱られようものなら「それを言い出したら終わりだろうが!!」と言い返せる領域にさえ入ってきているのではないだろうか。
『誰かが皿を割ってしまった時、まずは心配をする事』が即座にできなければ、一呼吸以上の間を置けば、それはパワハラやモラハラと判断される場合もある。
『配慮』にはスピード感が求められる。
そこにクチコミを拡散できる客が居れば尚更だ。怒鳴る事など不正解となる。
また、アメリカでは誰かがくしゃみした時に「ブレスユー」と声をかける文化がある。
それを言うのが流儀であり、今では「一応言っておくか」みたいな場面も多いと聞く。
声かけをする背景については長くなるので割愛するが、あれはアメリカ特有の隣人を尊重する温かさの文化と、銃社会故にガチガチの相互監視社会となって構成されている声かけ文化の融合体であるとも捉えられる。
令和日本の『配慮』や『心配』も、皿を割った時の『心配』も、相互監視社会が成したものなのかもしれない。
家庭内で起きた事と言えど、怒鳴ろうものならインターネットでその愚痴が公開される。鍵垢である事も多いだろう。
今や家庭内の物事は、家庭内だけで完結しない。インターネットで何かを呟き、発信する事を日常としている限り、ほぼ確実にそれを観測する第三者がいる。
かつて女子会や飲み会、職場の休憩時の会話、新聞の人生相談コーナーとして比較的クローズドに消費されていたその愚痴は、すぐさまワールドワイドに波及して、スクショにさえ残せるようになった。手の届かぬ場所まで拡散してしまうようになった。
相互監視社会はほとんど完成している。
時代は、世界は、自分は、パートナーは、いつか次の『配慮』に到達するのだろうか。
次の『配慮』は、どんな顔をしているのだろうか。